ぼくも何度か稚内には行っているのですが、この光景は見ていませんでした。
よく見ると、新鮮な、人々の生きざま、生活を感じさせる写真ですね。
ぼくは、多くの場合は南稚内で折り返していたからかもしれず、稚内駅はあまり馴染みがありませんでした。
でも、乗機時代最後の75年3月には「取材」と称してここにも行っています。
駅の北側には、わりと混み合った街並がありその中の小さな旅館に泊った記憶があります。
あれから40年ちょっと過ぎ、数年前に仕事で稚内に行き、その変わりように驚きました。
小さな町並みは区画整理で姿を消してしまい、空き地が目立つガラ〜ンとした空間になっていました。
駅もモダンな建物に変わり、北へ向かっていた線路も、ダミーのニセモノ線路が悲しく延びていました。
その先には、観光目的なのでしょう、かつての「稚泊航路」の連絡桟橋もどきが作られていて、
こあらまさんの写真に見るような海峡は遮られて、「壁」があり、むなしいい空間しかありません。
考えてみれば、沿岸漁業がとてつもなく衰退し、重要産業「国鉄」が全く姿を消してしまい、
仕事が、人々の生活が、とんでもなく縮小してしまったからですねえ。
かつては、確かに貧しかったけれども、多くの人たちが生活できたじゃないですか。
みんなで仕事を分け合い、助け合って生きていたじゃないですか。
なんでこんな時代に、味気無い、虚しい生活になってしまったのでしょうね。
ぼくは、今、70年ちょっと生きてきて、思い浮かべれば、20代の頃は、
この先はきっと良い世の中になるんだな、と確信していたのですが、逆に悪っくなっちゃいましたね。
いろいろなことを考えさせてくれる写真です。ありがとう。
- 2021/02/07(日) 20:25:47 |
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- 大木 茂 #-
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大木 茂 さん、
確かに、蒸気を撮っていた頃は、夜行「利尻」を南稚内で降りて、普通列車で折り返すのが定番でした。
ですから、単に最北端の駅と云うだけの稚内で、日中長居をすることなどありませんでした。
蒸気が全廃し、ようやく稚内駅周辺も歩き回ることが出来ました。写真は、全廃直後の頃です。
ホームの線路が真っ直ぐに堤防の脇まで伸びていて、そこが最果ての車止めでした。
お目当ては、稚泊航路に関係するようなものを探すことにありましたが、大した収穫はありませんでした。
現在の稚内駅はガラリとモダンになってしまい、近くには洒落たANAホテルもあり隔世の感です。
駅前広場に車止めのモニュメントがありますが、レプリカなのか写真の本物が使われているのかは知りません。
仰る通り、駅前の巨大な空き地や駐車場、ANAホテルの界隈は、平屋の立ち並ぶ漁師町のような風情だったと思います。
街をくまなく歩くと、栄えていた時代を思わせるような、商店や飲食店が多少残っていますが、風前の灯火です。
それでも、稚内は道内ではよく健闘している方じゃないですか。蒸気時代の賑わいが嘘のようんな町が沢山あります。
戦後の復興期は、みんな貧乏でしたけど、今の停滞感のようなものはなかったと思います。
きっと、今では、物が豊かになって、中流意識が蔓延って、守りに入ってしまったのでしょう。
職業間の賃金格差がデカくなったことで、生活格差も広がるばかりで、勝ち組と負け組ができてしまいました。
少し世の中の根本を改めないと、不幸せと云う猜疑心が社会を蝕み、国が滅んでしまうかもしれません。
物質的、金銭的な貧困が不幸せを作ることは確かですが、お金が幸せを作るはずもありません。難しい問題です。
- 2021/02/07(日) 22:43:54 |
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- こあらま #bhV1oT4A
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海も好き さん、
この写真がそうだとは申しませんが、連想が膨らむ写真も良いですよね。
見たまんまの写真で決定的瞬間とかもありますが、抒情的なやつが信条です。
この写真は北海道的な風景ですから、海が好きさんの深層心理に響くんじゃないですか。
こあらまの今亡き義父は樺太生まれでして、この車止めの向こうに思いが巡ります。
最北端とか最南端とか、好きそうな方々が結構おられると思うのですが、最北端の車止めの情報は少ないですね。
この写真の撮影場所は稚内と記録されているのですが、本当に最北端の車止めなのか確認が難しかったです。
Webで当時の航空写真が見つかり、やっと確信が持てた次第です。
- 2021/02/07(日) 23:52:00 |
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- こあらま #bhV1oT4A
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