秋の牧草地は刈り取りの季節を迎えた
宗谷の酪農地帯をサロベツが南下する

2018年10月 宗谷本線 兜沼
日本にもこんな場所が在ったんだなと思わせるような広大な眺めだ。もう、ここまで来ると稚内まで町らしい町はない。農業も宗谷の気候と土壌ではなかなか叶わない。残されたのは酪農で、丘陵地帯に何処までも緑の牧草地が広がる。調度この頃は牧草の刈取り時期に当たる。トラクタで刈った牧草は、そのまま3、4日牧草地で天日乾燥される。次にロールベーラーでロール状に巻き取り、さらに牧草地で乾燥する。最後に白や黒などのラップフィルムで包めば、コロンとも呼ばれるロールベールが出来上がる。中の牧草は時間を掛けてゆっくりと発酵し、サイレージという飼料になる。そして、長く厳しい冬の間の乳牛の保存食となる。作業の殆どは機械化され肉体労働は少ない。一昔前であれば、刈られた牧草はサイロに圧縮保存されていたが、今ではこのロールベールが主流になっている。
秋の風物詩の牧草地のロールベールの傍らで、キタキツネが秋の日差しを浴びて微睡んでいた。間もなく訪れる氷雪の季節を前に、宗谷には穏やかな時間が流れていた。
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- 2019/09/30(月) 00:00:00|
- 宗谷本線
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石巻平野を北上川の霧が覆う
川霧を突いて古参DLが現れた

2018年11月 石巻線 前谷地
秋の冷え込んだ朝、石巻平野は北上川から立ち昇る川霧で一面が覆い尽くされた。稲刈りの終わった田圃に、引っ切り無しに霧が流れていく。霧を活かす方法を色々と思案したが、霧が濃いため、なかなか線路端を離れることが出来ず、月並みなアングルになてしまった。キューロクやC11の敵として登場したDE10だが、その定期貨物列車もめっきり数少なくなった。この機関車を最初に撮ったのは、八高線のキューロクの筋に現れた時だった。そうやって、D51やC58よりも一足早く八高線のキューロクは消えて行った。そのDE10もお目見えして既に半世紀が経った。今度は彼らが追われる番になった。
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- 2019/09/28(土) 00:00:00|
- 石巻線
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常紋峠に続く峠道が秋に色付いた
そこには信号場となった金華があった

2018年10月 石北本線 金華信号場
特急「大雪」が常紋峠を越えて、北見国の留辺蘂町にある金華信号場に進入してきた。構内が終わるとすぐに登り坂が始まる常紋への道は、多くの蒸気ファンを魅了した北の峠道だ。ここ、北の石北本線常紋越えは、南の肥薩線矢岳越えと並び称された蒸気愛好家の聖地で絶大な人気を誇り、蒸気ファンなら一度は訪れてみたい場所だった。
それから半世紀、金華は廃屋ばかりが目立つ集落の中に静かに佇んでいた。有人駅だったはずだが、1983年に無人化、そして2016年には利用者減少のため信号場化されている。先の国勢調査では金華の人口は5世帯8人と記録されている。現役蒸気の頃には、駅前に数十軒の民家が立ち並んでいたことなど嘘のようにひっそりとしていた。


轍がはっきりとした国道から金華に通じる道は、秋の日差しに溢れていた。しかし、ちょっと足を踏み入れると、朽ち往く民家が多いことに、長い年月が過ぎ去ったことに気付く。数軒には人の生活が感じられ、人の気配が伝わってくるが、一体この場所で何を生活の糧にしているのだろか。駅前だったはずだが、その駅はもうない。この地に余程の思い入れが無い限り、ここに留まることは出来ないだろう。限界集落という言葉が頭を掠める。


特急「大雪」が、朽ち往く旧駅舎を横目に、無人の信号場をゆっくりと通過して行く。旧駅舎には常紋トンネル工事殉職者追悼碑の案内看板が残っていた。追悼碑は1980年に留辺蘂町立金華小学校の跡地に建立されている。つまり、ここにも小学校が在ったということだ。時代の流れは無情なもので、この集落から人の集いが、ひとつまたひとつと失われていった。


先日ご紹介した宗谷本線雄信内駅前と同様に、ここでも放棄された住居や車が立ち枯れる。積雪地帯だけに、雪に押し潰されれば早々に消え去る運命なのだろう。シャッターの上に掲げられた「地鶏たまご」の文字が、妙に心に染みてくる。在りし日の生活臭が、看板の文字とともに掠れて行く。

特急「大雪」は、間もなく信号場を抜け、2000年に開業した棒線駅の西留辺蘂へと向かう。かつて、石北本線にももっと多くの列車が行き交っていた。常紋越えの生田原、常紋、金華の各駅には交換設備等が設けられ列車を捌いていた。峠の常紋信号場が廃止され金華を棒線化すれば、生田原-留辺蘂間での交換が不能となり、列車運行の大きな支障となる。そのため、金華は信号場として生き長らえている。こちらも雄信内と同じ理由のようだ。蒸気時代には、キューロクの補機を従えたD51の牽く貨物列車が行き交い、国鉄の官舎もあった峠の要衝だったが、今や往時が偲ばれるのは長い交換設備だけとなった。
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- 2019/09/26(木) 01:00:00|
- 石北本線
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陸奥湾の砂丘が秋色になった
ススキの穂が湾を渡る風に戦ぐ

2018年10月 大湊線 吹越
下北とは、何とも寒冷荒涼としたイメージを抱かせる地域名だが、その語源はちょっとニュアンスが異なる。青森県では、藩政の時代の名残で、県西部を津軽地方、東部を南部地方と呼ぶ。その南部地方は、北から下北地域、上北地域、三八地域の三つに分かれる。この辺りの天気予報やニュースを見聞きしていれば、頻繁に登場するので、旅好きな方ならよくご存じのことだろう。つまり、下北は上北とセットになった地域名で、かつてここには北郡という大きな郡が存在したことを意味する。色々な意味での中心地から遠い側が下北ということになった。一方、三八は三戸と八戸の頭文字を結合させたものであることは周知の通りだ。
陸奥湾を臨む砂丘地帯も秋色になった。ススキの穂が湾を渡る風に戦ぐ。間もなく訪れる厳しい季節を前に、一時の安息の時間が流れる。ご覧の通りの吹きっ晒しだ。冬には低気圧の東風をまともに食らうことになる。強風や吹雪、さらには倒木などによる運休やトラブルも頻繁だ。そんな時には、並行する国道を往く路線バスのご厄介にはなるが、平常時の大湊線の高速運行による時間的優位は揺ぎ無く、何とか廃線が噂されない程度の輸送密度を維持している。JR路線でありながらJR鉄道網から隔絶されてしまった大湊線だが、下北での孤軍奮闘は今日も続く。
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- 2019/09/24(火) 00:00:00|
- 大湊線
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45年前のリベンジにここに立った
硫黄山を背に前照灯が大きくなる

2018年10月 釧網本線 摩周
どうも「摩周駅」はピンとこない。やはりここは、こあらま的には弟子屈町の「弟子屈駅」だ。摩周もいいが屈斜路湖はどうでもいいのか。JRになって駅名もかなり融通が利くようになったようだ。以前、「ニセコ駅」のことを書いたことがあるが、国鉄の原理原則の盾を前に、町はどうしてもこの駅名にしたくて町名を変えてしまったほどだ。その捨て身の作戦が、現在の「ニセコ」ブランドを築き上げる原動力となっている。駅名だけを観光振興のため「摩周」にするのでは、何か伝わるものが弱いような気もする。ブームにあやかって「温泉」を付け足すところもあるが、これはもうちゃっかり組と言えそうだ。
この硫黄山バックのストレートは現役蒸気の時代から有名スポットだった。その昔、この場所でC58の混合列車を待ったことがある。弟子屈からとぼとぼと線路伝いに歩いてやって来た。列車通過の10分程前までは硫黄山がスッキリ眺められていたが、その後まさかの吹雪に見舞われ目的が達せられなかったばかりか、駅に必死に逃げ帰るという羽目になった。それから45年、リベンジのために早朝のこの場所に戻ってきた。天気は上々だが朝の冷え込みで朝靄が引っ切り無しに流れていた。じきに晴れるだろうと高をくくって待っていたが、結果は45年前と同じに。山はガスに包まれてしまった。
再度の敗退はどうしても受け入れられなかった。釧網線も何時まで走っているのか分からないような時代になってしまった。仕方なく気持ちをリセットして次の列車を待つことにしたが、何せ閑散路線のため数時間の間がある。そこで、久しぶりに摩周湖に行ってみた。どういう訳か、ここに来ると何時もピッカピカだ。霧の摩周湖を見てみたいものだ。一通り摩周湖を愛でて、現場に戻ると朝靄は綺麗に晴れ渡り、今度は風情に乏しい硫黄山の山容が眺められた。おまけに、木々の成長で昔のようなスッキリしたアングルが得られない。昔と違って、昼夜前照灯が点灯しているのがせめてもの救いだった。

朝靄の硫黄山

煌めく摩周湖

定番アングルの摩周湖と摩周岳
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- 2019/09/22(日) 00:00:00|
- 釧網本線
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収穫真っ盛りでトラクタは現場で駐泊だ
毎朝2本の送込みがビート畑を下って往く

2018年10月 宗谷本線 美深
砂糖の原料といえば、南の島のサトウキビが真っ先に思い浮かぶが、国産原料の4分の3を占めるのは実は北のテンサイだ。面白いことに南の沖縄県、鹿児島県、北の北海道が砂糖の故郷になる。10月中旬、北海道ではテンサイの収穫のピークを迎える。この別名サトウダイコンとも称せられるフダンソウ属の二年草は、その属名である「Beta」からビートとも呼ばれる。寒冷地作物のため北海道の気候に適し、搾りかすは家畜の飼料になるため酪農王国に相応しい作物だ。日本の甜菜糖業の歴史は、1879年に現在の伊達市と札幌市に建設された官営工場に始まり、現在ではホクレンや北海道糖業に引き継がれている。北海道内ではこの時期一斉に収穫作業が始まり、収穫されたビートは専用の大型トラックで製糖工場へとピストン輸送される。
美深のビート畑が薄っすらと白みだした朝6時、キハ40の心地良いジョイント音が遠くから聞こえてくる。回4353Dが単車で名寄から音威子府に向かう。音威子府の上り始発の4322D旭川行きの送り込みだ。美深に戻ってくるのは07時14分になる。それより前の5時過ぎには、回4351Dが同じく名寄から音威子府に向かったが、まだまだ暗過ぎて、走行音と前照灯の明かりをチラっと見つけるのがやっとだった。音威子府からは下り始発の4321D稚内行きとなる。2本の送込回送が人知れず下っていったが、この地の下り始発は08時21分になる。つまりこの町の人々は名寄との結びつきが強く、音威子府方面には通勤通学客はいないようだ。何となく後ろの1本くらいは営業運転してもよさそうなものだが、乗客が皆無なら停まるだけ燃料の無駄ということになるのだろう。車両基地が少なく、駐泊も避けようというなら、ローカル長距離路線の車の遣り繰りは相当に厳しいものがある。
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- 2019/09/20(金) 00:00:00|
- 宗谷本線
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リンクの風太郎さんのブログ『風太郎のPな日々』で、先日
『風の弔い』という記事を拝見した。雄信内駅近くの朽ち往く廃屋が写っていた。こあらまにもその廃屋の記憶があり、調べてみるとやはり昨秋に撮っていた。風太郎さんの撮影が2012年であるから、それから6年後の姿ということになる。鉄道ブログに在っては異色のコラボとなるが、『風の弔い』のその後を追ってみた。

2018年10月 雄信内駅近くの廃屋
入口の下駄箱の上に同じように何故かトースターがのっているので、間違えなく同じ廃屋だ。6年前には奥に部屋の形が残っていたが、最早瓦礫の山と化している。下駄箱の扉も落ち、トースターは横倒しになっている。風太郎さんの推察では、廃屋内に野球少年が貼ったと思われる大洋ホエールズのシールがあることから、少なくとも1990年頃までは人が住んでいたのではないかとのこと。人の生活が残した痕跡から色々なことが見えてくる。

既に家族が去ってから30年程経っていると思われる民家は最後の時を迎えているようだ。冬のブリザードに煽られれば崩れ落ちそうな状態だ。今頃は既に原野の藻屑と化しているかもしれない。人も家もゆっくりと土に帰って行く。何時だったか「千の風になって」という歌が流行ったことがあるが、現実はそんなに調子のいいものではないようだ。人知れず朽ち果てていく様は、もっともっと儚く切ないものだ。

駅前のメインストリートには更なる骸が連なる。こちらには、水平偏波受信用の地デジアンテナが付いている。この地区の知駒中継局の地デジ開局は2009年だ。つまり、この民家には少なくとも10年程前までは人が住んでいたはずだ。現在、駅所在地の幌延町雄興地区の住民は2世帯6人とされる。駅前には廃屋ばかりで住民はおらずゴーストタウンと化している。1973年に訪れたときには、少なくとも雑貨店その他数軒の商店が営業していた。

宗谷本線 雄信内
さて、今度は駅に移ろう。この駅名は「おのっぷない」と読むが、駅以外は「おのぶない」と呼ばれている。どうして駅名だけが違ってしまったのか、これも何時だったかの旭川問題と同じようなことが連想される。2012年時点、この屋根を支える柱は洒落たデザインのものだったが、何時屋根が落ちてもおかしくない状態だった。さすがに、危険な状態は放置できないのか、柱が付け替えられている。しかし、この駅の乗降人員はゼロ更新を続けている。廃駅間近の駅舎に修復を施すとは如何なることなのか。

こちらは駅舎のホーム側。窓と扉は全面アルミサッシ化と思いきや、手前の4つの窓は木枠のまま。この辺りにJR北海道の財政状況を垣間見たような気がする。この駅舎はかなり古そうだが開業当時のものではない。1953年建造の二代目だ。

駅構内から音威子府方面を望む。この駅は本線仕様の立派な交換設備を持つ。現役蒸気の頃、何度かここでの交換を経験している。ひょっとすると、この駅が無くならないのはそのためかもしれない。宗谷本線でも、多くの交換設備が廃駅などによって失われている。確かに、この駅の交換設備を剥いでしまうと、かなり長い距離の棒線状態になる。この駅は実態は既に信号場なのかもしれない。

駅名票の左隣の駅名はシール貼りの「ぬかなん」だ。JR北海道ではこんな駅名票をよく見るようになった。2001年に廃止された「上雄信内」に上貼りされたものだ。上雄信内は国鉄時代は仮乗降場だったが、JR発足時に他の仮乗降場と同様に駅に昇格している。JR設立時の意気込みが感じられる対応だったが、その多くが今はない。人知れず原野に埋もれていく人家もあれば、突然地図から消える駅もある。膨張の時代から収縮の時代へ。全ては千の風になってしまうのか・・・。
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- 2019/09/18(水) 00:00:00|
- 宗谷本線
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例年通り9月6日の数日前には記事の仕込みを終えていたが、他人様にご迷惑をお掛けしているとは露知らず、更なる強化バージョンを作ってしまったので、急遽時期を遅らせて、一人時間差で「キューロクの日」をお祝いすることにした。只今少々野暮用に追われているため記事を作り直す気力もなく、かといって折角く作ったものを捨ててしまうほどの余裕もないので、敢えてこのようなかたちでのアップと相成った。
さて、今年は南北に合わせて本州のキューロクも加えて三本立てとした。本州のキューロクといえば米坂線、川越線、宮津線・舞鶴線や、青森や大宮、稲沢といった幾つかの入換くらいしか頭に浮かばない。面白いことにこの3線ではキューロクが客レも牽いていた。南北のキューロクが重量級の石炭輸送に邁進していたころ、本州では優雅に客レを流していた。そんなわけでキューロクの過去を振り返るには本州を忘れるわけには行かないだろう。
鉄道車両も国鉄時代になると全国共通化が進むが、それ以前の大正期の鉄道院時代の製造で、長い車歴を有するキューロクには、より大きな地域差、個体差がある。製造は川崎造船所、汽車製造、鉄道院小倉工場に限られるが、製造後の半世紀以上に及ぶ運用でその姿を大きく変えていった。北海道のキューロクと九州のキューロクには装備上も外観上も大きな違いがあり、一見すると別形式のようにも見える。地域に合わせて順応していったためだ。そのため、全国配車の創成期と末期を除けば遠方への移動は少なく、夫々の地域内で車歴を終えている。そんな地域性豊かな罐たちを、今年は南から見て行こう。

79657[行] 製造 1924年12月 汽車製造大阪 撮影 1973年8月 行橋機関区
この罐はキューロクの最終形といえる車番で、育ちは生粋の九州っ子だ。門司局が振り出しで、鳥栖や諫早を経てここ行橋で終わっており、門司管理局在籍の最後の蒸気機関車となった。キューロクにはまってしまうのは、この公式側のごちゃごちゃ感と小さな動輪と太いボイラーにある。従輪はなく炭水車はコンパクトな三軸。これらの仕様がキューロクを特徴付け、線路規格や運用を選ばない優れた性能の源になっている。そして、九州のキューロクの特徴は、比較的原型に近いこととキャブ下に点検口が開いていることだ。この罐はデフも穴開きだが、そもそもキューロクは新製時にはデフなしだったと聞いたことがある。そのため、各地で追加されたキューロクのデフは千差万別だ。
当時、日豊本線の電化は延岡まで延び、宮崎を目指して急ピッチで工事が進められていた。行橋機関区も電化とともに縮小の運命にあったが、田川線・伊田線を中心としたキューロクによる筑豊の石炭輸送の仕業を担っていた。油須原の前後に勾配区間があり、2輌、3輌とキューロクが合力して峠を越えていた。そのため列車本数以上の数の機関車が必要で、行橋機関区には常時多くのキューロクが屯していた。

49632[米] 製造 1920年7月 川崎造船所兵庫 撮影 1971年5月 米坂線 米沢
次は本州のキューロク。この罐は完全な本州仕込みだ。神戸局を振り出しに、富山、多治見、高山を経て米沢にやって来た。その米沢で廃車になっており、全てを本州内で終えている。ここ米沢機関区の罐には、ちょっと不細工な米沢式集煙装置が取り付けられていた。この時期には全て外されていたが、支柱だけが残されて何とも奇妙な容姿になっていた。無煙化を前にキューロクには錆が目立つようになってきていたが、ナンバープレートだけはこれまで通りピカピカに磨かれていた。
写真は米沢発車の客レだが、何でこんな大事な列車を駅撮りなどしているのか。まだ十分に明るいではないか。理由は単に、この後の急行「ざおう」で家に帰らなければならないためだ。日帰りの八高線に始まった蒸気撮影の旅は、この頃は夜行日帰りまできていた。当時の学校の休日は日曜祝日のみで土曜は半ドンだった。土曜の晩の夜行で発って日曜のうちに帰るというのが通例だった。しかし、この米坂線でのあまりの効率の悪さに一念発起。これ以降は、連休や春夏冬の休みに周遊券と夜行、ステーションホテルを最大限利用して、休みと体力と懐が続く限り家には帰らないという放浪生活が始まった。

9634[米] 製造 1914年11月 川崎造船所兵庫 撮影 1971年5月 第一種休車中の頃 米沢機関区
この頃、機関区の傍らには休車となった左沢線のC11やキューロクが列をなして留置されていた。なんと、その中には一度は拝んでおきたかった初期型の9634の姿もあった。ナンバープレートや主連棒が外されていないのが、逆に借別の思いを強くさせた。その後、第一種休車指定が解除され、翌年の米坂線のさよなら列車の125レを牽引することになるとは、この時は想像だにしなかった。この時既に米坂線の運用にもDE10が混じりだしており、何度かその甲高いホイッスルを聞かされる羽目になった。勿論、凸型DDには何の罪もないが、蒸気を待つ身としては、現れた新製間もないド派手な物体に好意を持つなどとんでもないことだった。

29675[稚] 製造 1919年3月 川崎造船所兵庫 撮影 1975年3月 天北線 浜頓別
最後に北海道は最北の稚内機関区のキューロク。この罐の振り出しは中部局で、育ちも完全な道産子ではない。1923年の関東大震災の際には東海道線藤沢-辻堂間で貨車もろとも脱線している。その後遺症が癒えなかったのか、1931年に北海道に渡り、長らく小樽築港で入換をしていた。現役蒸気末期の全検がきたものから廃車という関係から、この罐は最後の一年半を稚内で過ごしている。稚内機関区の守備範囲は宗谷本線北部と天北線になる。南のキューロクとは違って、原野をひた走る孤独のランナーだ。自ずとその厳しい自然環境は容姿にも表れてくるもので、九州のキューロクとは違った精悍さがある。先の米坂線の49632と同じ製造所で造られているが、半世紀後にはしっかり別物になっている。
写真は浜頓別の市街の外れで撮ったものだが、少々流し撮り風になっている。単に夕暮れが近づきシャッター速度が稼げなかったからだ。雪の北海道では太陽の具合で大きく露出が異なってくる。フィルムバッグ方式でない一眼レフでは、しょうがないので一台にはTri-X、もう一台にはPlus-X、さらなる一台にはPanatomic-Xなどということもあった。交換レンズならぬ交換ボディのようなことをやっていた。デジタル化された現在ではジョグダイヤルで勝手気儘だが、銀塩時代はそんな笑っちゃうような苦労もあった。だだ、音楽でもレコードの良さが見直されているように、銀塩にはデジタルにはない優れた面も多い。銀塩で撮られた現役蒸気と、デジタルで撮られた復活蒸気。そのイメージの違いは機関車だけではなく、写真手法の違いにもあるような気がする。
さて、大分長くなってしまったが、これでキューロクの記念日の記事を終わりにしたい。若かりし頃にキューロクを追いかけた少年たちも、今やいいオジサン、いやいいジジイとなった。何故か蒸気ファンの心に何時までも共鳴するキューロクの響きだが、遠い昔の共通体験を、再び共有できる機会があることは素晴らしいことだ。単なる昔話ではなく、今も写真や鉄道趣味が現在進行形の方々なら尚更だ。こういう掛け値なしの人の輪は大切にしないといけない。今後とも、「キューロクの日」の発展を陰ながら応援したい。
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- 2019/09/16(月) 00:00:00|
- 米坂線
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この路線は災害との戦いだった
区界の山間を山田線のキハが往く

2018年10月 山田線 上米内
山田線は風水害に泣かされてきた。1946年の被災では復旧に8年間を要し、海岸部と内陸部とのメイン輸送ルートの座を、後進の釜石線に明け渡している。そして、2011年の東日本大震災では、海岸部の宮古-釜石間が壊滅的な津波災害を被った。さらに山岳部では、2015年には土砂崩れにより脱線事故が起き、翌2016年には台風による土砂崩れが発生し、あわや廃止かと危惧された。今年3月には、沿岸部が復旧の上、三陸鉄道に移管された。かくして山田線は山田町を通らない路線となってしまった。JRが運行する盛岡-宮古間は、人口密度の低い山岳地帯でその存続が危ぶまれる。区界高原を越える列車本数は既に限界ダイヤだ。悪いことに、並行する国道106号線には「106急行バス」が毎時運行され、山田線に大きな脅威を与えてきた。よくぞ復旧できたものだと感心しつつ、次はないだろうなと勘繰る。そんな邪推を跳ね除けて、走れ山田線。
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- 2019/09/14(土) 00:00:00|
- 山田線
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横手の山間にぶどう棚が広がる
朝霧の中から秋色の畑が現れた

2018年11月 北上線 矢美津
秋田県横手市の大沢・山内地区はぶどうの一大産地だ。巨峰、キャンベル、ノースレッドなどの多くの品種が栽培されているが、特に「大沢スチューベン」は国内外で評価の高い特産品になっている。同じ横手市の大森地区では「メルシャン大森ワイン」が造られている。リースリングの白ワインで、ワイン好きには知られた存在だ。ぶどうと云えばやはり山梨で、生食用もワイン醸造用も山梨県が生産量トップだ。こあらまも甲州種の山梨ワインを愛飲している。しかし、鉄道写真にぶどうを絡めるのは、日本一の産地である山梨でもなかなか難しい。桃であれば花の時期の桃源郷が狙えるが、ぶどうとなるとなかなか決め手がない。実と絡めるとなると農家やワイナリーとの交渉が難しそうで手を出し難い。そんなこんなでぶどうは未開拓の題材になっていた。
そんな状況の中で通り掛かったのが、ここ横手市の大沢・山内地区だ。地区を北上線が通り抜けている。秋も深まり、朝霧の切れ間にぶどうの紅葉が見え隠れしていた。かなり前に、勝沼でぶどうの紅葉を中央線と絡めて撮ったことを思い出したが、その時はつまらない写真にしかならなかった。今度こそはと、ぶどう畑と絡められる場所を探し回り、やっと見つけた場所で始発列車を待つことになった。ちょうど朝日が顔を出す頃、北上行きの上り列車が通過して行った。思わぬ場所で思わぬぶどう絡みをゲットしたが、一瞥でぶどう畑の紅葉とは見られないような気がする。やはり、地元のぶどう畑で修業を重ねる必要がありそうだ。
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- 2019/09/12(木) 00:00:00|
- 北上線
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