奥武蔵の名峰武甲山は年々背が縮む
新宿の高層ビル群のルーツはここにある

2017年6月 秩父鉄道 浦山口
埼玉県秩父市と横瀬町の境にある武甲山の標高は現在1,304mとされている。1900年の測量では1,336mあったというから、32mも低くなってしまっている。良質の石灰石を産する北側斜面の上半分は禿山になってしまった。高度成長期、新宿の高層ビル群は武甲山が移動したものと云われていた。山頂付近には石灰岩質を好む高山植物が群生し、「武甲山石灰岩地特殊植物群落」として国の天然記念物に指定され、固有種のチチブイワザクラも生育していたが、石灰石の採取によって、その殆どが失われている。九州田川の香春岳もそうだが、今なお続くコンクリート社会を支える石灰の供給源だ。
武甲山の登山ルートは、西武秩父線の横瀬からの表参道と、ここ秩父鉄道の浦山口から札所28番橋立堂を通って登るコースがある。橋立堂に隣り合う橋立鍾乳洞は、武甲山が石灰石の山であることの証だ。写真は西斜面で、まだ奥武蔵の名峰の名残がある。前回に引き続き、今回も復活蒸気のお手軽お立ち台からの一枚だ。これまた見飽きた眺めだが、秩父鉄道らしい風景ではある。すっかり秩父鉄道に馴染んだこの罐は、そもそも国鉄が復活させた。そんな経緯からか、当初はJR線にも頻繁にお目見えしていたが、今はほぼ秩父専属に落ち着いた。復活の先陣を切った罐だけあって老朽化が心配だ。
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- 2019/05/31(金) 00:00:00|
- 秩父鉄道
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蒸気の通過に合わせて一瞬風が止んだ
この組合せも過去の物語になるのだろうか

2017年5月 只見線 会津川口
今回はご存知「かねやまふれあい公園」の超お手軽お立ち台からの一枚。見飽きたアングルだとは思うが、完全な水鏡に出会うことはなかなかない。四季折々、キハを含めて何度も撮っているが、只見川一面が水鏡というのはこれくらいだ。何を思ってそんな表現になったのかは知らないが、スイス的ともいわれる背景の山並みや大志集落もくっきりと水面に浮かんでいる。何より、毎年恒例だった只見のC11が懐かしい。たった2年前までのことだが、既に過去の出来事になりつつある。全線復旧の日を待つ沿線にとっても、人気SL列車の戦線離脱は痛手になるだろう。この頃の只見線沿線は新緑が美しい時期だった。「新緑」というのは、どうも春のものではなく、夏のもののようだ。5月6日頃の立夏から、6月5日頃の芒種くらいまでの期間を「初夏」という。つまり、新緑号はまさに初夏の列車だったということになる。
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- 2019/05/29(水) 00:00:00|
- 只見線・会津口
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飯山線の単行が盛夏の深緑を往く
涼し気な様にも見えるが大間違えだ

2018年7月 飯山線
5月だというのに全国的に真夏の暑さに見舞われている。北海道でも猛暑日が観測され、例によって観測史上云々の記録的な状況になっている。思えば、昨年のこの時も死ぬほど暑かった。新潟県内の飯山線、只見線沿線は、フェーン現象も加わり厳しい猛暑に襲われていた。4リットルの焼酎ペットボトルの水が1日もたなかった。撮影場所を決めると、近くの風通しのいい木陰で、ひたすら汗を流しながら静かにしていた。長期予報では今夏は何やら冷夏傾向とも伝えられていたが、果たしでどうなるのか。日中屋外で活動することの少ない人には実感はないだろうが、このまま温暖化が進めば、日中の野外活動は困難になるだろう。昼は寝て、夜に活動するような世の中がやってくるかも知れない。そうなれば全部夜行列車だなどと馬鹿なことを考えている場合ではない。来年の東京オリンピックは真夏の開催というから恐ろしい。エアコンの効いた密室で水揚げの皮算用に余念のない面々には、気温や湿度のことなど知ったことではないようだ。精々選手や観客がお亡くなりにならないことを祈るばかりだ。
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- 2019/05/27(月) 00:00:00|
- 飯山線
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新千円札の肖像の駅は今も郷里の地に立つ
鉄道は途絶えたが氏の功績は地元の誇りだ

2017年4月 宮原線 北里
時代が令和に変わったからか、来年東京オリンピックが開催されるからか、紙幣が新しくなることが前倒しで発表された。壱万円札は渋沢栄一、五千円札が津田梅子、そして千円札が北里柴三郎らしい。最も崇められるのが壱万円札。使われる機会が一番多いのが千円札。ちょっと露出度が低いのが五千円札のように感じる。その身近な紙幣の肖像になるのが北里柴三郎だ。偉人の経歴はご存じの通り、破傷風の治療法の確立やペスト菌の発見などである。日本結核予防協会や北里研究所、日本医師会などを設立し、慶應義塾大学医学部も創設している。細菌学、分子生物学が専門で、医療関係に従事していた身としては馴染みの有名人であり、その功績からお札となっても何の不思議もない歴史的な人物だ。
さて、このブログで北里柴三郎を取り上げたのは他でもない。かつて、九州は宮原線に「北里」という名の駅があったからだ。宮原線は久大本線の恵良と肥後小国を結んだ26.6kmのごく短い盲腸線だった。老婆心ながら、この線は九州らしく「みやのはるせん」と呼ぶ。途中駅は、町田、宝泉寺、麻生釣、北里の4駅となる。その熊本県阿蘇郡小国町大字北里が北里柴三郎の出身地だ。本家は代々惣庄屋の家柄で、鎌倉時代に源頼親の子孫がこの地に下って北里氏を名乗ったともいわれている。例によって国鉄分割民営化の迫る1984年、宮原線の廃止に伴って北里駅も消滅している。氏は郷里に「北里文庫」と呼ばれる図書館を寄贈しているが、現在はその偉業をたたえる町の「北里柴三郎記念館」となっている。
残念ながら、こあらまは在りし日の宮原線を訪れたことはない。廃線跡にはぽつぽつと遺構が残されているが、何といってもアーチ橋が素晴らしい。多分、日田彦山線の筑前岩屋辺りのものと同時代、同構造のものと思われる。両線ともC11が走っていたが、日田彦山線の方が取り上げられる機会が多かったように記憶している。今となって、こんな美しいアーチ橋があったとはと感心頻りだが、もう走らずの後の祭りだ。

終点の肥後小国は「道の駅」になっている

北里駅前後には美しいアーチ橋がある この橋は遊歩道として整備されている

こちらでは二つのアーチ橋が連続する 何とも素晴らしい眺めだ

町田駅のホームに駅名標が残る 宮原線の道床は国道の拡幅に使われたようだ
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- 2019/05/25(土) 00:00:00|
- 宮原線
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寒冷前線が通過して青空が戻って来た
残雪と瑞穂の緑が楽しめるのもあと幾許か

2019年5月 小海線
この春はずっと少雨が続いてきたが、先日久しぶりのまとまった雨が降った。水不足の地域には朗報だっただろうが、九州などでは豪雨災害の恐れもあった。降れば大雨が近年の悪い癖だ。八ヶ岳南麓は湧水群でも有名なところだ。八ヶ岳の伏流水が、標高1,000m付近のあちこちで湧き出している。湧水が干上がることはまずないので、深刻な水不足になることはない。怖いのはどちらかというと大雨の方だ。谷筋は軒並み土石流危険地帯になっており、何十年かに一度の大雨で大きな被害が出ている。昨年、一昨年の台風の大雨では、集落の中まで川のようになり、田畑が水浸しになり、床下浸水のお宅もあった。気象が激しさを増しているので、雨の降り方には本当に要注意だ。
先日の「落日そして水鏡」で田植え前の大カーブをご紹介したが、今回はその田圃のその後をお見せしたい。田植えも終わり、苗は順調に生育している。この田は酒米のため田植えが早かったが、既に近隣のコシヒカリなどの食用米の田植えも終わっている。この辺りも高齢化で、自家米中心で、出荷する農家もどんどん少なくなっている。それでも田圃を維持できていればいい方で、いよいよ体がきつくなると、手間の少ない畑に転作することになる。大カーブの内側も外側も、C56の時代からずっと田圃と決まっていたが、近頃畑に化けてしまった田圃が何枚かある。一度水稲栽培をやめてしまうと、まず再開されることはない。何時の日か、麦と蕎麦の大カーブが出現するだろう。
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- 2019/05/23(木) 00:00:00|
- 小海線
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小浜は京都への鯖街道の起点だ
古い町並みに繁栄の余韻が残る

2017年4月 小浜線 小浜
「塩の道」とは、沿岸部の町から塩や海産物を内陸部へと運ぶための道だ。製塩が、海水を用いた塩田に頼っていた時代、生活必需品の塩は沿岸部から得るしかなかった。そのため、世界中に「塩の道」が存在した。日本では、特に沿岸から距離のある信州には、多くの名のある「塩の道」が存在した。日本海沿岸から千石街道、北国街道が、太平洋沿岸から足助街道、秋葉街道などが信州へと繋がっていた。
そんな、「塩の道」のなかに、「鯖街道」と呼ばれる道がある。若狭湾に面する若狭国小浜と京都を結ぶ街道だ。1200年の長い歴史があるとされ、多くのルートが存在するが、その全てが「鯖街道」と称せられる。勿論、運搬されたのは海産物全般だが、特に鯖の量が多かったようだ。鉄道や自動車が普及する前、冷凍技術もなかった時代、鯖は塩漬けにされ、行商人に担がれて運ばれていた。小浜から京都までは丸一日。一塩の鯖は京都に着くころ、調度良い塩加減になっていたという。ただし、この名が使われるようになったのは近年のことだ。
小浜は、その歴史が少なくとも律令時代前まで遡ることができる由緒ある町だ。畿内色が濃く「小京都」とも呼ばれる。江戸時代には小浜藩の城下町となり、その頃に鯖の水揚げ港としての地位を築き、鯖街道の起点となった。その繁栄の証として、町の西部には「小浜西組」という重要伝統的建造物保存地区が存在する。旧丹後街道沿いに発展した古い町並みで、小浜観光の目玉になっている。写真の列車の背景がまさにその小浜西組だ。いぶし銀の瓦屋根の家並が広がる。左手には若狭湾が迫っている。2両編成の電車は間もなく小浜に到着する。

小浜西組の生活道路の佇まい

雑貨屋の店先にさがっていたカレイの干物

街道沿いにあった石の祀りもの
この後、小浜から熊川宿を通って琵琶湖岸の今津、琵琶湖を回って木ノ本に向かったが、途中の滋賀県高島市マキノにある道の駅「マキノ追坂峠」に立ち寄った。鯖街道の一つの琵琶湖ルートは、その高島市今津から船で琵琶湖を渡って大津経由で京都を目指す。また、若狭街道ルートは今津から陸路で湖西を南下する。鯖街道の地で鯖に纏わる食べ物を探していたが、焼鯖寿しとはいいものを見つけた。写真で見ても生唾ものだ。美味かったことは言うまでもない。

その名も「こばやしの焼鯖寿し」

油の乗った肉厚のジューシーな鯖だ
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- 2019/05/21(火) 00:00:00|
- 小浜線
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妙にアナログな機関車に信号機
単純だからこそ安全ってこともある

1973年8月 日豊本線 田野
何てことないC57の発車シーンだが、今回のお題はこの赤ナンバーの4次型の192号機ことではない。その横に鎮座する腕木式信号機についてだ。まずは、その種類を復習しておこう。基本、次の4種がある。用途はご存知だろうから割愛する。
灯火色 腕木長 腕木色 腕木形状 出発信号機: 赤・青 0900mm 赤に白線 棒形
場内信号機: 赤・青 1200mm 赤に白線 棒形
遠方信号機: 黄・青 1200mm 黄に黒線 矢羽形
通過信号機: 黄・青 0900mm 黄に黒線 バチ形
さて、写真の腕木式信号機を見ていこう。2本の支柱に4つの腕木がある。左下は通過信号機で、残りの3つは場内信号機となる。ということは、写真奥に3線の駅があるということになる。左の支柱は場内信号機と通過信号機のセットで、右の二つの場内の下には「35km/h」という速度制限が示されている。これらのことから、駅舎は向かって左にあり、駅舎前に片面ホーム1面1線があり、場内踏切か跨線橋で連絡する島式ホーム1面2線があることが予想される。駅舎前の左端の線が比較的直線的配置になっていて、通過列車に使われているようだ。右側の島式ホームの2線は、左端線よりポイント数も多くなり、侵入に際しての速度制限が付いているのだろう。
写真では、手前の閉塞区間にC57牽引の貨物列車が進入したので、場内信号機は何れも「停止」の赤、通過信号機は「注意」の黄となる。通常、通過信号機は場内信号機とセットで運用される。何れもが「進行」の青であれば、列車は速度を落とさず場内に進入し、タブレット交換を済ませて去ってゆく。もし、場内信号機が「進行」の青、通過信号機が「注意」の黄の場合には、その先の出発信号機が「停止」の赤になっているので、列車は減速、徐行し、場内での出発待ちの運転停止となる。勿論、場内信号機が「停止」の赤であれば、信号前での停止となり、場内には進入できない。つまり、場内信号機と通過信号機のセットで、3灯或いは4灯式信号機の役割を果たしている。カーブ等で場内信号機の視認性が悪い場合には、その手前に遠方信号機を設置することになる。遠方信号機は、場内信号機が赤の場合は「注意」の黄、場内信号機が青の場合は青となり、通過信号機と同様に「停止」の赤はない。
たった4つの腕木信号機と速度制限標識で、面白いように駅の大方の様子が分かってしまう。合っているか否かは田野駅構内の線路配置を調べてみれば検証できるはずだ。こあらまは現役蒸気時代の田野には何度も足を運んでいるので、駅構内がどうなっているかは知っているが、知っていての推察ではないことを念押ししておく。ちなみに、田野には昔ながらの木造駅舎が残っていて、線路配置も写真の時代から大きく変わっていない。当時は、ブルートレインの「富士」や「彗星」、キハ80系の「にちりん」などの特急が田野を通過していた。何時の日か、田野に再び立ってみたいのだが、C57の時代があまりにもいい印象で記憶されているので、訪れるのが怖いくらいだ。田野の築堤はどうなっただろうか。あの素晴しい「南国の薔薇」の地は健在だろうか。
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- 2019/05/19(日) 00:00:00|
- 日豊本線
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一瞬の夕焼けが只見川を染める
河岸の駅が復旧の夜明けを待つ

2017年5月 只見線 会津川口
これまで只見川の夕焼けをずっと狙ってきたが、なかなか幸運に恵まれなかった。この日は写真仲間とC11の試運転を撮った後、川口の夕焼けと夜景を狙うために会津川口に陣取った。お祭りの蒸気は一緒に撮っていたが、その後のキハは各自の気儘な自由行動だった。この日は全員の意見が合って川口への移動となった。狙い目は、18:48着の431Dと、その折り返しの上り最終列車となる19:09発の434Dだ。調度この時期の夕焼けは431Dの到着時刻辺りだった。
物足りない夕暮れ空を背景に、電灯が煌めき出した大志集落に431Dが定刻に現れた。手持ちの望遠系ズームでその姿を追うが、川口駅方向に向きを変えた時、空がいい塩梅に染まっているのに気が付いた。慌てて広角系のもう一台にスイッチしてこの画をゲットした。列車はゆっくりと川口のホームに滑り込もうとしていた。当然のことのように、仲間は誰も広角系を準備しておらず、夕焼けはファインダーには収まり切らず、あっという間にその光を失っていった。
この列車の、その後の折り返し準備時間中が、夜景の撮影タイムとなる。勿論レンズは望遠となるが、そのためもあって皆望遠系を準備していた。こあらまは、小海線大カーブでの天空狙いの常習犯であり、この時間帯の空色の気まぐれさは痛いほど承知している。夕暮れを迎えるに当たっては、望遠使用時も、必ず広角系を手元に待機させている。銀塩時代は至難の業だったが、今のカメラは夕焼けなどは手持ちでガンガン行ける。技術の進歩は最大限利用すべきだ。
写真中央辺りに、現在は通らずの野尻川橋梁が見えるが、出来ればそこを渡っているシーンも欲しかった。復旧すればそんなチャンスも戻って来るだろう。上り最終列車の434Dが去ると、会津川口に再び静寂が戻って来る。昼間の暑さと打って変わって、只見川の湿気を帯びた冷気が漂い出す。この後、435D、437Dの2本が会津若松から下って来るが、2本とも川口での夜間滞泊となる。深夜23:30の終着をもって、ローカル線にしては長いこの駅の一日が終わる。
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- 2019/05/17(金) 00:00:00|
- 只見線・会津口
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大村線に往年の急行色気動車が往く
C57の客レが来ればもっといいのだが

2017年4月 大村線 千綿
さすがはお堅い国の機関だけあって、かつての国鉄には何事にも厳格な基準が必要だったようだ。車両の塗装にも、当然のことながら「車両塗色及び表記基準規定」という約束事があった。気動車については、一般形が朱色4号とクリーム4号、急行形は赤11号とクリーム4号、特急形は赤2号にクリーム4号のツートンと決められていた。確かに、キハ20、キハ58、キハ82を一瞥しただけで、普通なのか、急行なのか、特急なのかが直感的に分かった。しかし、乗り間違え防止のための顧客目線の措置とは思えず、階級社会の国鉄組織の仕組みが、車両の格付けにも繋がったのではないだろうか。例えば、車掌にしても、普通、急行、特急と乗車列車の格付けが、車掌の職位にも直結し、特急専務車掌が憧れのポストとなった。
さて、写真のキハ66系は、山陽新幹線の博多開業に合わせて1974年に製造が開始され、筑豊線を中心に運用された。キハ58系の血を引く顔面は、さらに運転席を高くした構造になり、後のキハ40などに引き継がれていく。機関は高出力の水平対向12気筒のターボチャージャー付のDML30HSHが採用され、転換クロスシーや冷房装置も装備し、急行形を凌ぐスペックとなっている。しかしながら、位置付けはあくまで「快速」に充当する一般形だったため、塗装色は朱色4号を使わざるを得なかった。苦肉の策で、急行形の塗分けがなされた。何度か、筑豊本線で見掛けたことがあるが、モノクロ画しか見当たらず、その姿をお目にかけられないのが残念だ。その後、1978年に規定が改訂され、晴れて本物の急行色となった。
現在のキハ66系の働き場所は大村線だ。2編成がかつての急行色に戻されている。国鉄色は絶大な人気があり、各地でリバイバルするケースが多いが、国鉄時代にその塗装が実在した車輛形式での復活は数少ない。タラコのヨンマルもその一例だが、急行色となると、大村線のキハ66は貴重な存在だ。こあらまが現役蒸気を追っていたころの大村線はC57が目当てで、急行色といえば「平戸」くらいだった。博多から長崎や佐世保に向かう優等列車は大概大村線は通らない。キハ58の急行「平戸」は、へそ曲がりにも、筑肥線、松浦線、大村線、長崎線経由で博多と長崎を結んでいた。よき鉄道時代には巡回迷走列車が各地に走っていた。近頃、大村線にも新型車の導入が囁かれ、ノスタルジックな急行色もあと僅かかもしれない。
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- 2019/05/15(水) 00:00:00|
- 大村線
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大塚を往く都電7000形と国鉄103系
ともに昭和の東京を支えた花形電車だ

1976年6月 都電荒川線 大塚駅前
都電荒川線の大塚駅前停留場は、山手線大塚駅の駅前、いや駅ホーム下にある。地方の鉄道が衰退していく中、東京都心の鉄道はまだまだ元気だ。大塚を走る山手線も都電も、今も変わらず多くの乗客で賑わっている。この大塚駅前停留場の屋根は、今では不細工な丸いカバーが掛けれれているが、当時はレールの骨組みが見て取れる三角屋根だった。今も昔も、都電ホームが大塚駅の南口と北口を繋ぐ連絡通路の役割も果たしている。昔は、人が線路を気にせずに歩き回れたが、その後は専用軌道化が進み、人や車と通行が分けられた。手前に広がっていた石畳は無くなって、路面電車の風情は薄れてしまった。この系統が残れたのは、専用軌道の多さの故なのだが・・・。
一方、ガード上の山手線ホームには、長らく国鉄通勤形電車の花形だった103系が停まっている。74年から製造された高運転台構造の車だ。冷房化が本格化したのは73年頃からで、この車にも集中式冷房ユニットが載り、窓も閉じられている。そうして、何時しか窓が開かないのが当たり前の世の中へと移り変わって行く。この頃こあらまは大学生で、毎朝晩、通学の山手線からこの界隈の雑踏も眺めていた。ふらっと途中下車して都電を撮ったりもしていた。台風で山手線が停まって、大塚から動けなくなったことがある。駅前のパチンコ屋で時間を潰したが、飛込の店では勝手が掴めず、大負けしたことを覚えている。こあらまにとっては、そんな思い出の地でもある。
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- 2019/05/13(月) 00:00:00|
- 東京都電車
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