列車は中国山地を下り間もなく日本海に達する
桜の花が綻び出した出雲平野は神話の国でもある

2018年4月 木次線 南宍道
何時ものように「えきから時刻表」で列車時刻表を見ようとすると、何と【サービス終了のお知らせ】の画面がが現れた。2019年3月29日をもってサービスを終了したとのこと。これまで長らく株式会社ぐるなびの運営する「えきから時刻表」を利用してきた身としては衝撃的な結末だった。撮り鉄にとって必要なのは、駅時刻表ではなく列車時刻表だ。そのデータを元にダイヤグラムを起こして撮影のお供としてきた。
これまで類似のサービスがないか検索もしてきた。「HyperDia」や「トレたび」などもあるが、利便性は「えきから時刻表」には遠く及ばない。さて、これからはどうしよう。アナログ時代の冊子の時刻表に戻るしかないのだろうか。撮影直前に、あるいは撮影中に、欲しい路線の最新の時刻表を、瞬時にそれも無料で手に入れられたのも、もはやこれまでか。あまりに当たり前になってしまったことなので戸惑いも大きい。
貨物列車については、今もウェブ上で時刻表を見ることはほぼできない。一部の篤志家が公開している特定路線のダイヤグラムがあるくらいだ。最終的には、少々お高くなるが、年に一度JR貨物の冊子を購入して、詳しい運行情報を得るしかない。旅客列車についても、先祖返りしてしまうのか。何時ぞやの様に、分厚い時刻表をボロボロになるまで持ち歩かなくてはならないのか。何かいい手があったら教えて欲しい。
スポンサーサイト
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/30(土) 00:00:00|
- 木次線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
寂れた駅に再び人の賑わいが戻ってきた
雲海と桜の天空の城は今も人気上昇中だ

2017年4月 播但線 竹田
兵庫県朝来市和田山町竹田にある播但線の竹田駅は、山陽鉄道の新井-和田山間の開業に伴って1906年に誕生した。駅舎は開業時のままで、間もなく満113歳となる。大きく歪んだ瓦屋根が、過ぎ去った年月の重さを感じさせる。かつては、駅舎前の単式ホームと跨線橋で繋がれた島式ホームの2面3線の構造だったが、今では中の1線が撤去されて2面2線になっている。駅舎寄りの上り線に、ヨンマル単行の寺前行きの普通列車が到着した。桜に誘われたのか、リュックを背負った若者たちの一群が、春うららの竹田駅のホームに降り立った。
この駅はつい最近まで何処にでもあるような、寂れるばかりのローカル駅だった。ところが、2006年に日本100名城に選定された竹田城跡の人気上昇に連れて、少しずつ駅に賑わいが戻ってきた。2016年には、特急「はまかぜ」が通年停車するようになり、今も雲海と桜の天空の城を求めて、観光客は絶えないという。駅周辺はかつての城下町で、随所にその名残が感じられる。町の規模に不釣り合いと思われるような大きな寺社が残されているのもその表れだ。リュックの若者たちは、桜が満開の城址へと続く登山道を、楽しそうに登っていった。

テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/28(木) 00:00:00|
- 播但線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
海辺には石州瓦の民家が犇めく
傍らの橋梁には瓦色のキハが往く

2017年4月 山陰本線 宇田郷
朱色5号。いわゆるタラコのキハが登場したのは、1975年の大宮工場だった。相模線を皮切りに、川越線や八高線へ、そして房総の非電化路線へと増殖して行った。そのため首都圏色とも呼ばれる。財政難に陥った国鉄の倹約策の一つで、塗装工程の簡略化を狙っている。ヨンマルことキハ40は、製造当初から朱色5号のタラコ色だった。ちょうど現役蒸気にとって代わって現れたため、蒸気撮影時には目にしていない。
国鉄が分割民営化され、JRに引き継がれたキハは、所属のJR会社のイメージカラーにカラーリングされていった。キハ40の継承が最も多かったJR西日本でも、色々な塗装の車が登場したが、結局近年タラコに戻されている。理由はこの塗装がお目見えした時と同じ塗装の簡略化だった。時代は繰り返されるもののようだ。かくして山陰本線は、タラコ色のヨンマル一族が集う長大路線へと先祖帰りすることになった。
初めてタラコを見た時、ああこれで国鉄も終わったかと思った。何と下品な塗装を思いついたものだとがっかりもした。ところが、登場から44年が経ってみると、不思議なことに見慣れてくるものだ。さらには、国鉄の遺伝子を受け継ぐこいつが来ると嬉しくなったりもする。山陰道には赤褐色の石州瓦の民家が多いが、何故か朱色5号の色調はそっくりだ。ひょっとすると、タラコは日本の伝統色なのかもしれない。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/26(火) 00:00:00|
- 山陰本線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
この駅も何時の間にか棒線化した
真っ直ぐになった桜道を快速が往く

2018年4月 津山線 誕生寺
岡山県久米南町にある津山線の誕生寺駅のすぐ傍には、浄土宗の栃社山誕生寺がある。1193年に法然の生誕の地に建立された誕生律寺がこの寺院の始まりだ。近年開創された中国三十三観音霊場、山陽花の寺二十四か寺にもなっている。この時、誕生寺駅に寄った目的には誕生寺の参拝もあったが、それよりも駅の西方の山中にある棚田を訪ねてみたかった。棚田とか古い町並みとかがあれば、つい足が向いてしまう。津山線は本数が多いので、迷わず脇道に入ってしまった。
久米郡の久米南町には北庄、上籾の二つの棚田があり、駅の東方の美咲町にも大垪和西、小山という二つの棚田がある。何れも「棚田百選」に選定されている。この時は、誕生寺から近い、有数の規模を誇る北庄、その隣の上籾の棚田を見て回った。所在を地図で確認すると、多くの溜池が存在することが分かる。北庄にある「神之渕池」は、どうやら農水省の「ため池百選」なるものになっているようだ。そんな百選があるとは知らなかった。日本人は百選がとことんお好きなようだ。
生憎、棚田の田圃は冬から目覚めておらず、期待したほどの眺めではなかった。時期を選んで4つの棚田を巡るのも楽しそうだ。代わりに、北庄の棚田の斜面に、桜の大木がある風情のある農家を見つけたのでお見せしたい。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/24(日) 00:00:00|
- 津山線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
桜も咲いて山岳区間も冬眠から覚めた
積雪期にはここ出雲横田が終点になる

2018年4月 木次線 出雲横田
20日の長崎に続いて、21日には東京、福岡、横浜で桜の開花が発表された。気象庁の開花宣言は、各気象台が定める標本木で行われる。東京は靖国神社、福岡は気象台敷地内、横浜は元町公園にソメイヨシノの標本木がある。「生物季節観測」は、何も花見の予定を立てるためのものではないが、この季節、桜の開花は世間の関心が高い生活情報であることは確かだ。連日、靖国神社の桜が何輪咲いたか話題になるとは、何とも日本は平和な国だ。とはいえ、本邦は国民の「幸福度」が低い国のようだ。東京の桜の開花があった21日、国連は2019年の「世界幸福度ランキング」を発表した。日本は昨年の54位からさらに順位を落として58位となった。まさか、溜まりに溜まったストレスの発散のための花見じゃないだろうね。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/22(金) 00:00:00|
- 木次線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
豪雪地帯が柔らかい日差しに包まれる
滴り落ちる雪解け水は雪国の春の息吹だ

2019年3月 飯山線
気温が上がったこの日、雪解けがどんどん進む。さすがに、核心部の積雪は直ぐには解け切らないが、長野寄りの替佐辺りは朝方と夕方とでは違う眺めになっていた。3月初めだというのに、雪の飯山線はもう最終日といった感じだった。終わってみれば、この冬はやっぱり暖冬で、豪雪地帯の飯山線の春は早そうだ。温暖化で積雪が減れば、冬の生活は楽になるだろうが、雪解け水が少なくなれば、色々な問題が起こりそうだ。魚沼米の稲作に支障が出るかもしれない。JR東日本が電力不足に陥り、首都圏の夏の冷房がおぼつかなくなるかもしれない。営々と繰り返されてきた人の生活は、結構脆いものなのかもしれない。気温がほんの数度上がるだけで、壊滅してしまうかもしれない。滴り落ちる雪解け水が、何時までも雪国の春の息吹であって欲しい。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/20(水) 00:00:00|
- 飯山線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
春先の天候はまだまだ不安定だ
期せずして小雪の舞う朝になった

2017年3月 飯山線
気象庁の桜の開花状況を覗いてみると、まだソメイヨシノの観測木の開花は記録されていないが、日本気象協会やウェザーニュースの桜の開花予想によれば、今春の開花のトップは福岡、宇和島などで3月18日、東京は3月21日だ。早くも桜の季節がやってくる。満開は開花から1週間くらいと言うから、3月末には見頃を迎えそうだ。花見好きの日本人にとって桜の話題が欠かせない時期の到来だ。そろそろ、こちらのブログも衣替えの頃合いになった。十分に活動できなかったこの冬も終わり、何とも後ろ髪をひかれる思いだが、新しい四季の始まりに賭けよう。移ろいゆく季節への出会いは、何時だって一期一会だ。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/18(月) 00:00:00|
- 飯山線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
オホーツクの早春はまだ深い雪の中だ
ロシアの町の名が何時しか日本語になった

1975年4月 天北線 浜頓別
「オホーツク」と聞けば、日本人であれば、北海道のオホーツク海とその沿岸地域を連想するだろう。しかし、この名はもちろん元々は極東ロシアのハバロフスク地方の町の名で、この地方で最も古い町のひとつとされている。1647年に、カムチャッカ、千島、樺太、日本、アラスカなどへの東方探索のためのコサックの越冬地になったのがこの町の始まりとされている。オホーツク(OXO’TCK)という地名は、「狩猟」というロシア語からきている。その後の時代の流れで、極東ロシアの中心地はハバロフスクやウラジオストクへと移っていくことになる。
さて、鉄道界にオホーツクの名が登場したのは、1959年に運行が開始された、旭川-網走間の準急「オホーツク」ではないだろうか。1956年には戦後処理の「日ソ共同宣言」が発効し、両国の国交が回復している。それにしても、親方日の丸の国鉄がロシア語の列車名を採用するとは驚いたものだ。当時、国交回復の祝賀ムードがあったのかもしれない。しかし、1960年には、第二次岸信行内閣が行った安保条約改定にソ連が反発し、共同宣言に謳われた歯舞・色丹の返還なども帳消しとなった。再び日ソ首脳会談が再開されるのは田中角栄の時代だった。
日本に大きな影響を与えたのは、その町の名から命名された「オホーツク海」の存在だろう。日本の北洋漁業にとって重要な場所で、気象学的にも注目される海域になっているので、「オホーツク海」という言葉の露出度は高く、日本人の日常生活の中にも、徐々に浸透していったのだろう。特に、北海道オホーツク海沿岸に押し寄せる流氷は、地域の冬の貴重な観光資源となっているばかりではなく、流氷のイメージは、海産物のイメージアップにも繋がっている。「オホーツクの流氷が育んだ北の幸」とか言われると、ついついというのがその効果だろう。
北海道は余りにも広大な場所のため、1897年に郡役所の代わりに、渡島、桧山、胆振、日高、空知、石狩、後志、上川、留萌、宗谷、網走、十勝、釧路、根室の14の支庁が置かれた。2010年には振興局に再編され、9つの総合振興局と5つの振興局となった。何れもが地方自治法の支庁の機能を維持しているので、再編の目的が達成されたかは甚だ疑問だが、何れにしても、支庁時代と同じ名称をもった振興局が誕生した。そのなかで、唯一名称を変えたのが「網走支庁」だ。何とロシアの町の名を採った「オホーツク総合振興局」になってしまったのだ。
この経緯がまた面白い。この地域は古来「北見国」と呼ばれた。つまり、中心地はあくまで「北見」で、「北見」が「網走」から支庁の座を奪還しようとした。しかし、先立つものもなく、支庁舎を移転させることも出来ない。そこで、周辺の町村が仲裁に入った。いっそのこと「北見」でも「網走」でもなく、思い切って、イメージが定着してきた「オホーツク」にするという案が飛び出した。その旗振り役は、過疎化の進展が停まらない北見のお隣の置戸町だったようだ。網走の抵抗もなく、すんなり「オホーツク」の名を持つ行政組織が日本に誕生することになった。
ロシアの町の名が海の名になり、その海の名が日本の地域のイメージとなる。そして、その名を採った行政区まで生まれた。オホーツク紋別空港、JA 何だらオホーツク、オホーツクドーム、日本野鳥の会オホーツク支部、東京農大オホーツクキャンパス、オホーツクカントリークラブ、ドコモショップ オホーツク支店・・・・・。もう「オホーツク」は立派な日本の地方名だ。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/16(土) 00:00:00|
- 天北線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
繰り返し報道された野蒜の出来事
保存された駅が問いかけるものとは

2018年11月 仙石線 旧野蒜
8年前の3月11日の昼過ぎ、こあらまは山梨にいた。激しい地震に家の外へ飛び出したが、揺れで道がゆらゆらとうねっていたのを、はっきりと覚えている。直ぐに停電になり、非常用のラジオから流れてくる大津波の報道に、事の重大さを知った。車中泊用のランタンの光を頼りに、薪ストーブで夕食を作り、湯を沸かして水回りの凍結を防いだ。電気が復旧したのは翌朝だったが、夜明け前に再び強い揺れに見舞われた。こちらの震源は、長野県北部だった。
あの大津波から8年が経った。先日、山田線の沿岸部の宮古-釜石間でのJR東日本による設備の復旧工事が終わり、三陸鉄道による試運転が始まった。これで、被災した路線は廃線になることなく、全線の復旧の目途が立った。一足早く2015年に復旧した仙石線も、大きな被害を受けている。被害の中心は東松島市の野蒜地区だった。多くの津波被害の報道が発信された場所なので、皆さんご記憶のことだろう。今回はその野蒜駅の現在の様子をご紹介したい。
現在、陸前大塚-陸前小野間のルートは、100億円の経費を投じて、高台に付け替えられている。新しい野蒜駅も500m程離れた内陸に新設された。残された旧野蒜駅は「災害復興伝承館」として保存開館され、震災の記憶を後世に伝える役目を負った。この時は「ファミリーマート東松島野蒜駅店」が同居していたが、今は閉店の上、伝承館の一部に充てられているようだ。奥松島の玄関駅は、期せずして震災のモニュメントとして観光客を迎えることとなった。

がれきはすっかり撤去され、清掃もされているので、一見大きな被害があったようには感じられない。頑丈な単純構造のホームは、津波の襲来にも耐えたのだろうが、細部にはやはり傷跡を見て取れる。中央の電柱の先の高台に建物が見えるが、こちらが新しい野蒜駅になる。旧駅と同じ島式ホームの2面2線になっている。

旧駅舎の災害復興伝承館に展示されている自動券売機。形は辛うじて保たれているが、ディスプレイなどは破壊されている。Suica対応機であることが、余計に痛々しい。

写真パネルがメインの展示室内の大時計は、元は駅舎正面に掲げられていたもので、地震発生時刻の2時47分を指している。

地震発生時刻は、上下の列車が夫々野蒜を出発した直後だった。駅と夫々の列車での出来事は、何度となく報道されている。人的被害を最小限に留められたのは、乗務員と乗客の的確な判断だった。

4両編成の上り1426Sあおば通行きは、津波の直撃を受けて流された。50名の乗客は乗務員の誘導で高台の野蒜小学校の体育館に逃れたが、そこすら安全な場所ではなかった。運転士は濁流にのまれたが、運よく避難の男性たちに救助されて、九死に一生を得ている。

一方、4両編成の下り3353S石巻行きは、この場所で停止した。野蒜駅から少しばかり登った小高い丘の切通だった。写真は陸前小野側から見たものだ。こちらも、揺れが落ち着くと、96名の乗客は乗務員の誘導で、同様に野蒜小学校への避難を開始した。乗客の一人だった石巻市の阿部義美さんは、元消防隊員でチリ地震の津波を経験していた。彼の直感ともいえる判断によって、全員が元居た車両へと引き返したが、その直後に避難経路は津波にのみ込まれたという。乗客・乗員は、持ち合わせた菓子などを分け合って一夜を凌いだという。
ここには重要な示唆がある。乗務員は指令から野蒜小学校への避難を指示されていた。しかし、その指示に反した行動を採り、結果的にその判断が乗客の命を救うことになった。非常の緊急時、指令の指示が優先するのか。現場の判断が優先するのか。その答えは後者ということになった。同時に、乗務員の判断能力がより問われることにもなった。旅客航空機での乗客の安全確保は、常に現場の機長の判断が基本だ。鉄道においても同じということだ。JR北海道の車両火災事故での乗務員の対応は、激しい非難を浴びたが、乗務員が我先に逃げ出したどこかの国の航空機とは、比べものにならないほど野蒜の鉄道員は優秀だった。

同じ場所から陸前小野側を写したものだ。前方の立派な高架橋が新線になる。旧線には既にレールはなく、徐々に線路の痕跡も消えつつある。こうやって津波の記憶も消えていくのであろうか。

歪んだレールが津波の威力を伝えている。自然災害の前には人間は余りにも無力だ。鉄壁と思われた田老の防潮堤も呆気なく破られた。それでも人工物による防災のため、三陸沿岸の町々は今も工事現場の様相を呈している。盛り土によって造成された新たな敷地は、高度成長期の東京近郊のニュウータウンを連想させる。あれほど風情のある港町だった陸前高田には、もうその面影は微塵もない。その首都圏のニュータウンにも、今や高齢化による存亡の危機が迫る。立派な道路が開通すれば集落が消えるというのは、北海道でよく言われたことだ。山田に造成された高台の新たな街区は、すでに当初のニーズを失い、その8割に利用予定がないという。被災地の復興計画は、どういう過程を経て策定されたのだろうか。巨大防潮堤や新たな街区の造成のような大規模防災土木事業ばかりが、最優先課題とされてきた。被災地が公共工事の食い物にされた感すらする。大規模工事が終わった時、そこに何を見るのか。近い将来、結果が出るだろう。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/14(木) 00:00:00|
- 仙石線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:2
列車のジョイント音が春浅き里に響く
飯山線の朝日の4連が長野へと向かう

2018年3月 飯山線
ローカル線には単行の気動車が良く似合う。飯山線では、特に長野・新潟の県境地帯の閑散区間では、自ずと単行列車が多くなるが、豊野口にはちょっとした混雑もある。JR東日本のキハ110系は、両運転台のキハ110、片側運転台2両固定のキハ111/キハ112の2タイプから成っている。国鉄時代のキハの普通列車は、両端に運転台さえあれば、中間はどうなっていようがお構いなしで、形式も入り乱れた凸凹編成だった。そのための、形式を越えた貫通扉であり協調態勢だった。
キハ110系の登場によって、編成はスマートになり、協調の効率も良くなった。ただし、この形式は同族間の連結しか許されない。写真は長野側の朝の通勤・通学の列車で、ローカル線っぽくない4両編成が走っている。キハ111/112の固定編成に、キハ110が2両付いている。帰ってくるときは、ばらばらにされて3列車に充当される。只見線のキハ40のように、積雪期の出力不足を補うための2両編成は、ここキハ110系の飯山線では希だが、安全確保のための二人乗務にはなっている。
早春の朝日が昇るころ、通勤・通学客で込み合う4連が長野へと向かう。里に残った雪も僅かになり、春本番も近い。稜線の向こうに見える雪山は、北信五岳のひとつの飯縄山だろうか。飯山線に、雪山バックの新緑が見られるようになるのはもうすぐだ。
テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/12(火) 00:00:00|
- 飯山線
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0