【ご案内】
このシリーズでは写真だけをご覧いただいております。個々の写真には題名も文書も付けていません。ごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。路線は小海線。撮影は2018年夏です。
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テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
2018/08/31(金) 00:00:00 |
小海線
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一番列車が大栃山の田圃を抜けて往く
一面の鮮やかな緑はあの日と変わらない
2018年7月 只見線 入広瀬
「魚沼へ」から41年、今の大栃山の田圃はこんなだ。圃場整備が入り、只見線の軌道の左右には、長方形の田が幾何学的に連なっている。あの稲架木は皆消え去り、代わりに舗装された農道に沿って無機質な電柱が並んでいる。警報機が厳めしいこの踏切は、以前は「汽車に注意」だけの砂利道の簡素な第4種踏切だった。踏切は立派になったが、逆に通過する列車は減り、編成も短くなった。あの頃からの時代の流れは、只見線には逆風続きだ。
時代に連れて風景も変わって行くのは当たり前のことだ。人の暮らしを良くするために必要なこともある。圃場整備によってコメ作りが続けられているのなら、それはそれで致し方ないことだ。稲架木がなくなったのは寂しいが、地元の方々も同じ気持ちでいるかもしれない。稲架木はおろか、田圃を守るだけで精一杯なのかもしれない。細かいことはさて置いて、今もこうして美しい青田の中を往く列車を眺められることに素直に感謝すべきだろう。
41年前、素朴で昔懐かしい風景と、そこに生きる人の営みを記録するために足繁く通った村は、今も十分に撮影意欲を誘う場所だ。ただ、それは昔と今とではちょっと違った意味でだ。41年前、その村では冬の出稼ぎが当たり前だった。厳しい生活の中でも逞しく生きる人々の姿が印象的だった。今は逆に、豊かな四季の移ろいの中の、心穏やかな暮らしが目に映る。41年の時の流れは、人の暮らしに必要なものが何なのかを提起する時間でもあった。
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2018/08/29(水) 00:00:00 |
只見線・小出口
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新潟の美味いコメを思わせるハンノキ並木
稲架木の向こうを魚沼のキハが通り過ぎて往く
1977年7月 只見線 入広瀬
現在の稲作では収穫はコンバインでなされます。大型機では刈り取られた稲穂は同時に脱穀がなされます。籾殻は田に撒かれ、袋詰めされた玄米が農協の低温乾燥倉庫へと運ばれます。その後、精米業者に売り渡され、家庭へと届けられます。今でも、刈り取られた稲の天日干しが見られますが、多くが農家の自家米か、一部の高級米になります。農家の人たちは、昔ながらに、農薬を使わない専用の田で作った米を、天日干しにして食べています。本当に、美味しいもの、安全なものは、経済原理の前に、蔑ろにされてしまいました。
ここ新潟では、稲架木と呼ばれるハンノキなどの生木が、天日干しの支柱にされてきました。これまで何回かお送りしてきた「魚沼へ」に出てきた民家の周りに、末口の細丸太が立てかけてあったのをご記憶でしょうか。今回の写真の稲架木にも立てかけてあります。この細丸太を稲架木の並木に横に渡して、そこに稲束を振り分けて架けていきます。しかし、新潟を象徴するこの稲架木の並木は、圃場整備とともに消えていきました。当時の入広瀬でも、年々稲架木は減る運命にありました。今は、物干し台のような稲木をよく見かけます。
ここは、入広瀬の上条寄りの大栃山の田圃です。今は、すっきりとした障害物の無い眺めで、只見線の人気の撮影地になっています。圃場整備が入る前の当時は、ここにも少ないですが稲架木の並木が見られました。稲架木越しに小出行きのキハ58が走って行きます。この時代、急行型のはずのキハ58も非冷房のものからローカル線に回されました。2エンジンのキハ20系はキハ52しかありませんでしたから、2エンジンのキハ58はローカル線でも重宝され、スピードアップに貢献しました。この列車は5両編成で、キハ55、キハ20と続きます。現在は2両編成のヨンマルが行き来していますが、いよいよ国鉄の残照も消えようとしています。
撮影を終えて入広瀬の駅に戻ると、急に土砂降りの雨となりました。ホームに大粒の雨が打ち付けています。この頃の入広瀬の駅舎は初代の木造でした。雨模様となったので、ここでの撮影を切り上げて、行ったことのない田子倉に向かいました。無事に田子倉に着き、駅周辺をロケしましたが、何と大雨で大白川-只見間が不通になってしまいました。復旧の見通しがつかないと放送が流れてきます。田子倉駅周辺は今も昔も無人地帯です。意を決して、国道を通る車を捕まえてヒッチハイクでの脱出を試みました。車も偶にしか通らないので、車を捕まえるのにどれだけの時間が掛かったでしょうか。やっと乗せてくれる車が現れました。
ところが、その方は非合法組織から堅気に戻って、電気工事店を営んでいるという経歴の持ち主でした。背中には刀傷があり、体の一部が欠損していました。非合法組織でのこと、どうやって堅気に戻れたかなど。色々な社会勉強をさせてもらいました。食事までご馳走になり、別れ際には、何時でも困ったら訪ねて来いと名刺をくれました。それ以来、その方のご厄介になったことはありませんが、人が困っているときに真っ先に助けてくれるのは、この道の人なんだと思ったりもしました。余談になってしまいましたが、魚沼ロケの際には、そんなこともありました。
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2018/08/27(月) 00:00:00 |
只見線・小出口
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釧路に向かうスーパーおおぞらが軽快に楓を通過する
かつて炭鉱の町があったことなど忘れたのかのように
2017年10月 石勝線 楓信号場
現役蒸気を撮っていた1970年代、石勝線は開通しておらず、室蘭本線の追分から、夕張線が夕張山地の炭鉱へと伸びていた。現役蒸気の最後の営業運転が行われた場所だ。その夕張線の中程に紅葉山という名の駅があった。何とも美しい名は、石勝線開通時に素っ気のない新夕張に改称されている。その紅葉山からは、東の登川に至る7.6kmの短い支線が分岐していた。途中には、これまた美しい名の楓という駅があった。この支線も夕張と同様に、石炭を運び出すために敷かれたものだった。かつて、楓には北礦真谷地炭鉱楓鉱、登川には北礦登川炭鉱があった。この支線は最初は楓までだった。楓の少し手前で分岐して登川まで延伸された時は、楓はスイッチバック式の駅だったそうだ。坑道とのアクセスのため、線形は変えられなかった。
まず登川鉱が1953年に閉山し、楓鉱も1967年に合理化された。楓から石炭列車が消えると、駅が登川の分岐点に移転し、スイッチバックが解消された。こあらまが訪れた頃には貨物輸送はなく、登川支線ではキハ22が旅客の輸送に当たっていた。そして1981年、登川支線は廃止され、夕張線は石勝線に編入された。登川支線は石勝線ルート上にあったが、急勾配、旧カーブの連続だったため、隧道主体の新線が敷設された。廃止された二代目楓と登川の中間辺りに新たな三代目楓が代替駅として設置されたが、代替駅という性格上、新夕張方面からの折返しの普通列車が通うのみだった。徐々に本数が減らされ、末期には平日の朝の一往復で、通学にも通勤にも使えない本数だった。2004年春に三代生き延びた楓駅は信号場に降格された。
最初の写真の右側の引込線の先にホームと駅舎があったが、今は更地に戻され保線関係に使われている。本線の上下線にも各々に長いホームがあったが、使われることなく撤去されている。石勝線の新夕張-新得間には12の信号場がある。開拓による居住者の増加を見込んで、後々は駅化するつもりだったようだが、どうやら政治力も働いていたようだ。楓はたまたま駅としてスタートしたために、立派なホームが初めから用意されていた。写真右に見える車道が、三川国道の274号線だが、登川支線の跡地を利用している。この一帯には炭鉱住宅が軒を連ね、多くの人々の生活があったが、今はその痕跡を見つけることも難しい。北海道のかつての基軸産業だった林業も炭鉱も国策によって奪われた。その一つの栄枯盛衰がここ楓の地にも潜んでいる。
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2018/08/25(土) 00:00:00 |
石勝線
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清らかな川の流れが如何にも涼しげだ
荒川の河原にシゴハチの汽笛が響いた
2014年10月 秩父鉄道 上長瀞
先日、酷暑が一息ついたが、台風の影響なのか、また暑さがぶり返してしまった。8月も下旬になり、もう少しの辛抱だろうが、そろそろ猛暑とはおさらばしたいところだ。そんなわけで、暑さに疲れた身と心に、ちょっと涼しげな水の流れを。清流の流れは本当に爽やかだ。今、連なってやって来ている台風に、西日本の清流が、再び濁流となって牙をむくことがないよう祈りたい。
この辺りの落ち込みは、競技カヤックの練習場になっている。時々ライン下りの観光船も下ってくる。涼しげな水遊びに楽し気な人々を横目に、こちらは陸に上がった河童ではないが、じりじりと照り付ける日差しに焼かれながら、じっと列車を待った記憶がある。ということは、穏やかな陽光に日向ぼっこは、まだまだ先のようだ。本当に夏と冬ばかりで、春と秋が短くなってしまった。
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2018/08/23(木) 00:00:00 |
秩父鉄道
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その名の通り、沿線には白樺の林が広がっていた
林業で栄えた時代は過ぎ去り、その林が残された
1974年8月 深名線 白樺
白樺の駅名に惹かれて下車したものの、朱鞠内湖に面した住民空白地帯で、無人の駅からは確かな道もなく、獣道のような踏み後はどれも林の中で消えていた。不思議な静けさに包まれた場所で、熊との遭遇が恐ろしかったことは、以前の記事でお伝えした通りだ。それでも、2本のキューロク貨物がフィルムに残されている。さすがに熊笹が生い茂るブッシュに分け入る勇気はなく、1本は線路端で列車を待つことになった。鉄道以外に一切人工物はなく、列車が現れるのか不安になるような眺めだが、ちゃんと時間通りにキューロクの牽く貨物列車が現れた。その駅に降りた時、車掌氏はこの駅でいいのかといわんばかりに不思議な顔をしていた。そして、このキューロクは人影を見つけて何故かスピードを落とした。
その名の通り、崩れかかった駅ホームの周辺には、白樺林が広がっていた。シラカバは日光を好む落葉広葉樹で、成長は早いが寿命は70年程で、ソメイヨシノと同様に比較的短命な樹種だ。その林は大抵、日光が少なくても生きられるブナや針葉樹にとって代わられて、一代限りで終わってしまう。つまり、この白樺林は針葉樹の伐採によってよって生まれた、過渡期的な植生なのだろう。この地には、かつては広大な針葉樹の原生林が広がっていたはずだ。一時の林業の繁栄の時代、この地にも伐採の手が入った。鉄道が敷かれ、木材は白樺の駅からも盛んに運び出された。この白樺林は、そんな時代の置き土産のようなものだ。あと数十年もすれば、人跡も消え果て、この森も元の原生林の姿に帰ることだろう。
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2018/08/21(火) 00:00:00 |
深名線
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道南のランドマークの駒ケ岳が朝焼けの空に浮かんだ
秋の早朝の冷たく湿った空気を長距離貨物が切り裂く
2017年10月 函館本線 大沼
函館本線の大沼は、夜半から早朝に掛けて、貨物列車街道となる。日付が変わる午前0時を過ぎると、札幌貨物ターミナル行きの下り貨物が相次いで通過する。深夜2時からは、今度は上り貨物のラッシュとなる。先陣を切るのは、日本列島を走り抜ける98レ福岡貨物ターミナル行きだ。続けて、隅田川、宇都宮、名古屋、吹田と、内地の貨物ターミナルに向けてDF200 Red Bear の暁の奮闘が続く。
大沼の東の空が色付き出したころ、静寂の水面を通してDFのエンジン音が聞こえてくる。大阪の百済貨物ターミナル行きの8062レが姿を現し、貨物列車のラッシュが終わる。夜が明ければ、旅客列車が主役の時間帯へと移って行く。この後20分もすれば、ヨンマルの上下の始発列車がこの辺りで擦れ違う。さらに10分後には、1Dスーパー北斗1号札幌行きが通過して、いよいよ旅客列車が始動する。
こあらまは、現役蒸気の時代から人知れず働く貨物列車のファンだ。一般貨物の時代には、荷に合わせて多種多様な貨車が存在した。貨物を見れば、その地の産業構造を窺い知ることができた。石炭列車や鮮魚列車、そうそう野菜列車もあった。荷が、何所から何所へ運ばれていくのかを想像するのも楽しかった。重量級の本線貨物が後補機を従えて峠を越えていく様は、蒸気時代の醍醐味の一つだった。
そして今。やっぱり貨物が好きだ。在来線から長距離列車が次々と姿を消し、今や長距離列車といえば貨物列車だ。荷姿はコンテナに規格化されてしまい、かつてのような多彩な貨車を楽しむことは出来ないが、各地のご当地コンテナや企業コンテナを編成の中に探す楽しみもある。何より、遥か彼方を目指す長距離列車には、たとえ終着が貨物ターミナルであっても、やはり旅への思いを感じるものだ。
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2018/08/19(日) 00:00:00 |
函館本線
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段丘の上からパッチワークの丘が始まる
なだらかな斜面に点在する樹木が丘の象徴だ
2017年10月 富良野線 北美瑛
この辺別川の河岸段丘の上は、一面の畑作地になっている。美瑛の丘がどうやって生まれたのかが分かるような眺めだ。この地で稲作が出来るのは、丘陵に谷を刻む河川沿いの僅かな平地だけだ。何処までもうねうねと続く波状丘陵は、畑作地として開墾されてきた。何時しか、その美しく開放的な景観は、背景の白銀の十勝岳連峰と相まって、「丘の町」として観光客を呼ぶようになった。
丘の末端の段丘崖は、開墾が及ばず、鬱蒼とした森として残されている。勾配を嫌う鉄道は、大半がそんな川筋に沿って走っているため、丘陵の上に出ることはない。そのため、パッチワークの丘と絡めての撮影はとても難しい。ちょっとだけ、丘の上の雰囲気が垣間見れるこの場所も貴重な存在だ。いっその事、流行りのドローンでも使えば、素晴しい丘の町の視界が開けるのかもしれない。
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2018/08/17(金) 00:00:00 |
富良野線
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日が高く昇った頃、上り始発列車がやって来る
駅のホームには人影もなく、まるで回送列車だ
2018年7月 只見線 入広瀬
夏の日が高く昇り、騒々しいセミの鳴き声とともに猛暑の一日が始まった。集落が始動してから既に大分経ったころ、上り始発列車の2422D只見行きが入広瀬に着いた。乗降客が殆ど望めない列車であることは重々承知しているが、ひょっとしたらという期待もあった。しかし、やはりホームに人影が現れることはなかった。空しく、車側灯だけが点灯し、そして消灯した。気温は既に30℃を越えているが、新潟色のキハ40の排気が陽炎となって流れてゆく。
この駅の一日は判で押したような単調な繰り返しだ。06時32分の下り始発列車の2421D小出行きで、通学の生徒と数少ない通勤者は上越線沿線の町へと向かう。その多くは17時45分の上り只見行きで帰って来る。遅くなった人たちは、20時32分の上り最終列車の2428D大白川行きで戻ることになる。これが、この駅での毎日の繰り返しだ。その時刻に合わせて、近在から送迎の車が現れる。鉄道利用の場合、残念ながら、これ以外の選択肢は無いに等しい。
沿線の人たちも、高校生だけになってしまった只見線の現状をとても憂いている。利便性、経済性から乗ることは出来ないが、鉄道には残っていて欲しいと切に願っている。蒸気機関車を走らせて観光路線にでもならないかと沿線の方が語っていた。旅客輸送の役割が大きく失われてしまっても、その存在感は確かに沿線の人々の中に生き続けている。勝手な願いと切り捨ててしまえばそれまでだが、アイデアでどうにかなるものなら、それに越したことはない。
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2018/08/15(水) 00:00:00 |
只見線・小出口
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暑い日差しを受けてコトコトと列車がやって来た
青田を遮る木々の緑が瑞穂の国に迫りくる
2018年7月 飯山線
この場所も気が付いてみれば、随分と木々が成長したものだ。元は一面の田圃だったようだが、耕作されなくなった田に木が生えて、こんな立派な林に成長してしまった。田圃と云うのは、一旦草を生やしてしまうと簡単には田には戻らない。ましてや、林になってしまえば畑にすることもままならない。つまり、多くは耕作されずに野に帰って行く。今の日本で、農業で生計を立てていくことは難しい。特に穀物は一部の大規模農家を除けば殆どが兼業だ。多くは、先祖伝来の田圃を守るために、家族と親戚の米を細々と作っているのが現状で、兼業とも言えない有り様だ。
瑞穂の国の象徴である青田の風景も、絶滅危惧種入りする日も近いかもしれない。中山間地では、既に後継者が殆どいない状況を考えると、今の世代で最後になってしまうかもしれない。この抜けにしても、5年先、10年先にどうなっているかは楽観できない。田圃の緑に負けじと成長する木々の緑が、視界の半分位にはなってしまった。新たに草の生えだした田もあるような。田圃が無くなるのが先か。木々に覆われてしまうのが先か。それとも、このか細い鉄路が消えてしまうのが先か。年々抜けが小さくなっていくこの風景を眺めていて、ふとそんなことが頭を過った。
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2018/08/13(月) 00:00:00 |
飯山線
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