
【ご案内】
このシリーズでは写真だけをご覧いただいております。個々の写真には題名も文書も付けていません。ごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。路線は小海線。撮影は2018年夏です。
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- 2018/07/28(土) 00:00:00|
- 小海線
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九州夜行列車の要衝の門司構内を水銀灯が照らす
専用機のEF30に守られて「阿蘇」が本州へと渡る

1977年8月 鹿児島本線 門司 (6x7判)
本州と九州を結ぶ在来線長距離列車の往来が盛んだったころ、夕方からの門司には、九州各地から本州に向う夜行列車が集まって来ていた。一世を風靡したブルトレ寝台特急に交じって、安価な自由席座席車もある急行列車も並行して運転されていた。機関車交換が行われる夜の門司の構内を、水銀灯が煌々と照らし、列車の運行を支えていた。ホームは駅弁などを買い求める乗客で賑わっていた。
雨の降り頻る中、熊本から新大阪に向かう204レ急行「阿蘇」が、門司のホームにゆっくりと滑り込んだ。牽引機は交流機のED76から、手際よく塩害対策車のEF30に交換された。ステンレスボディの関門トンネル専用機だ。門司を出発すると、直ぐに本線上に口を開いた関門トンネルに列車は吸い込まれて行く。そして、再び下関で本線用直流機のEF58に交換されて、長い深夜の山陽道の旅路につく。
そもそも、「阿蘇」は東京発が始まりだ。東海道新幹線の開通で、始発駅が名古屋、新大阪と西に移って行った。この写真の時代は、新大阪-熊本間の座席のみの設定になっていた。客車は旧客時代からはグッと快適になり、リクライニングシートの14系が使われていた。しかし、新幹線に押され、長距離夜行列車は先細りの時代を迎えていた。そして、3年後の1980年の10月改正で「阿蘇」は姿を消した。
訂正狂電関人さん のご指摘で、この「阿蘇」の牽引機はEF30ではなく、EF81(300)ということです。EF81(300)は、EF30の増備車として、1973年から1974年に掛けて4両が新製されています。EF30と同様にステンレス車体外板などの塩害対策が施されています。後に、改造車のEF81(400)がEF30の後継に当たっています。記事中のEF30は、EF81(300)と読み替えてください。ただ、やはり当時の主力機EF30の方が、ゴロ的に座りが良いように感じます。誤記、すいませんでした。狂電関人さん、ありがとうございました。
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- 2018/07/26(木) 00:00:00|
- 鹿児島本線
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45年前の今時分も炎天が続いていた
そこには蒸気を追いかけた熱い日々があった

1973年7月 関西本線 柘植
夏休み入って間もない45年前の昨晩、酔っぱらいの定番帰宅列車の東京発23:43の143M大垣行きに乗車した。名古屋で07:22発の関西本線の333Dに乗り換えて、45年前の今日の09:40に加太に降り立った。まずは、加太に1時間程停車する荷41レと対面して、久し振りの石炭の匂いを満喫する。牽引機はツバメマークの831号機だった。その後は、中在家側の有名な「加太の大築堤」には行かず、反対方向の関側に向かっている。小学生の弟を連れて蒸気を撮りに来ていたご兄弟とご一緒し、トンネルの出口にある小さな鉄橋の下を流れる川に降り、川に入って「月と鹿」の882号機が後補機に付く貨物列車を撮っている。先日、
あるブログ を拝見していて、そのトンネルと鉄橋が、坊谷隧道、坊谷川橋梁という名であることを知った。その時の3人が写った記念写真が残っているので、アップしてお二人を探したいところだが、そこはグッと堪えよう。
加太は早々に終わりにして、13:35の338Dで亀山に向かう。頻繁に入換作業が続く亀山は、当時、既に立ち入ることが難しい機関区になっていたため、傍目からC50の入換や、D51の発着を眺めた。参宮線のC57を鈴鹿川橋梁で撮って、こちらも早々に引き上げて、15:23の341Dで、今度は柘植に向かう。柘植では、加太越えの後補機の連結、解放が行われるため、給水、給炭、転車などの設備が整っていたが、こちらではほぼ自由に構内を歩き回れた。日が傾いてきたヤードで休むD51885の雄姿を、精緻な形式写真風に残そうと、珍しく三脚にカメラを据えた。ついでに、セルフタイマーで自身の記念写真も撮ってみた。今となっては、蒸気だけよりも当時のことが偲ばれるのではないかと、恥を忍んでこんな写真を上梓してみた。当たり前のことだが、45年前は本当に若かった。それは、現役蒸気の方々は皆一緒だ。若かりし頃の、45年前のあの夏の日に思いを馳せて欲しい。夫々の煙の思い出が蘇るはずだ。
夏の夕刻まだまだ明るいが、柘植を16:49発の713D急行「くまの」で京都へ向かう。そして、京都18:15発の長崎行き203レ「雲仙3号」の人となった。既に何回か訪れていた関西線を軽いメニューにしたのは、翌日から始まる山陰線、山口線、三江北線を訪ねる長旅が待っていたからだ。山陰線の西の玄関の下関に着くのは、45年前の明日の早朝の04:35となる。

加太駅の荷41レ ツバメマークのD51831
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- 2018/07/24(火) 00:00:00|
- 関西本線
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- 2018/07/22(日) 00:00:00|
- 小海線
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人里離れた山間に棚田が広がる
山村の田への思いの結晶を見るようだ

1977年5月 上越本線 湯沢
魚沼の米作りや酒造りなどの産業の基盤になってきたのが魚野川です。大正年間までは、水運にも利用されていました。谷川岳の西麓一帯を水源地として、長岡で信濃川に合流します。ちなみに、谷川岳東麓は湯檜曽川の源流で、利根川と合わさり太平洋へと注ぎます。上越線は、その湯檜曽川を遡り、分水嶺の谷川連峰を清水隧道で抜け、魚野川に沿って下るというコースを採っています。峠を越えて、越後側の最初の町が湯沢になります。今回の「魚沼へ」は、その南魚沼の湯沢から始まります。
最初の写真は、上越線を往く特急「とき」です。1974年に、ボンネット型181系の老朽化を補うために183系1000番台が投入されましたが、181系も在来線「とき」の最後の日まで上越線を走り続けました。魚野川の支流に架かるこの小さな橋梁の右奥に建設中なのが、上越新幹線の「ガーラ湯沢駅」です。本線は、駅は通らずに、この沢を渡ると直ぐに湯沢隧道に入り、次に地上に出るのは石打になります。その隧道工事の看板が写真左手の線路脇に立てられています。
湯沢は、川端康成の「雪国」によって、知名度が大きく上がった温泉町ですが、1982年の上越新幹線の開業によって、町の景観が大きく変わりました。折からのスキーブームが追い風となって、民宿やペンション、ホテルが次々と建てられました。さらに、1987年成立の天下の悪法のリゾート法の影響で、50棟以上の高層リゾートマンションが出現しています。その末路はご存知の通りです。リゾートマンションは10万円でも買い手がつかず、13億円近い固定資産税の滞納が生じているようで、廃墟だらけの町と化してしまっています。
そんな湯沢の町も、温泉地を除けば、新幹線が通じる前は静かな山間の農村の風情でした。何となく、バルビゾン派の絵画を連想するような、長閑な風景が広がっていました。この季節、魚野川沿いの田圃では、田植えが始まります。まだ、使われているのは小さな耕運機くらいで、田植機などはなく、一家総出の人手による田植えでした。人の手によって、3条に苗が植えられていきます。



ここからは、北魚沼の守門村、入広瀬村です。山間部ですから、平地は僅かで、多くが山の斜面の棚田になります。今、棚田が脚光を浴びる時代になりましたが、それは観光資源としてのことです。有名になった棚田が各地にありますが、多くで農作地としての意味合いは失なわれつつあります。当時、この地にも見事な棚田が数多く存在していました。苗が何本も植えられないような、本当に小さな田にも水が張られ、大切に稲が育てられていました。今の世の中で、こんな手間暇掛かる田圃を維持しようという人はいないでしょう。日本がそれだけ豊かになったということなのでしょう。




帰りに乗った只見線の小出行きの列車が、越後須原で列車交換しました。当時の小出口は、越後広瀬、越後須原、入広瀬、大白川に交換設備がありました。現在は、1列車のみが往復するだけの線区になってしまいましたから、除雪拠点駅の大白川を除いて全て棒線化されています。もう、2度と見ることのできない、小出口の交換風景かもしれません。キリリとした車掌さんの眼差しからは、国鉄の風格が伝わって来るようです。
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- 2018/07/20(金) 00:00:00|
- 上越本線
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山陰海岸の落日は素晴らしい
神話の島の彼方に夕日が沈む

2018年4月 山陰本線 宝木
「因幡の白兎」は、日本人なら誰でも知っている有名な神話だ。白兎が、ワニザメを欺いて隠岐の島から気多の岬に渡ろうとしたところ、もう少しのところで、騙したことがばれて毛を剥れてしまうところから始まる。その神話の舞台とされるのが、鳥取市の西部郊外にある白兎海岸だ。浜の西側には、そのワニザメの背に例えられる淤岐ノ島がある。地学的には、河原火砕岩層の海食崖と断層によって切り離されて、飛び石になったらしい。山陰海岸ジオパークのジオサイトの一つになっている。
白兎海岸は、淤岐ノ島の彼方に沈む夕日が綺麗な海岸だ。その夕日を絡めて列車を撮りたいところだが、鳥取から倉吉に掛けての区間は、山陰線は海岸線近くを走らない。大概は、通り過ぎてしまう区間だが、夕日の時間に重なったので、白兎海岸近くの水尻池で夕日ギラリを狙ってみることにした。お目当てのヨンマルの通過には光線が合わず、「スーパーまつかぜ」の時は、水面にさざ波が立ってしまい、目論見は外れてしまった。その穴埋めではないだろうが、素晴らしい夕日が待っていた。
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- 2018/07/18(水) 00:00:00|
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爽やかな夏の北海道にも温暖化が迫る
北のヨンマルと青葉のコントラストが涼しげだ

2016年7月 函館本線 大沼公園
いよいよ日本列島が湿った暖気に飲み込まれ始めた。関東以西は大変な猛暑に襲われている。西日本の被災地のご苦労は、筆舌に尽くし難いものだろう。こんな時に、都会で大停電が起きたら、人々の生活は一体どうなってしまうのだろうか。何時も、考える度にぞっとする。
現代の都会の日本人は、一年中空調に守られて生きている。何時の間にか、自然の気候と調和して生きることを放棄してしまった。そして、その心地よさの代償で、気候そのものが人の生存を脅かすまでになってしまった。今や、葦簀と風鈴と団扇で、暑さを凌げるレベルではない。汗をかきながら西瓜を食べたのが、遥か昔のようだ。
その悪循環がますます早まり、毎年各地で激しい気象現象の記録を塗り替えている。その度に、血と涙と汗が流される。人が最後の一人になるまで、そのサイクルに終止符が打たれることはないのだろうか。
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- 2018/07/16(月) 00:00:00|
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先の豪雨で山間部の運休が続く
中国山地のローカル線が危ない

2018年4月 福塩線 備後安田
今回の西日本豪雨から1週間が経ったが、中国山地を往くローカル鉄道は、軒並み運休が続いている。大動脈の山陽線が、そして呉線や伯備線までもが寸断されている状況では、山間部の閑散ローカル線に手が回る筈もない。西への貨物輸送にも大きな支障が出ている。九州との輸送は完全にストップしている。JR貨物は、当面、残留貨物をトラックで代替輸送するとのことだが、山陰線経由の迂回輸送の検討も始めたようだ。ただ、殆どが単線、非電化の山陰線での運行には多くの問題がある。DLをどうするのか、運転士の訓練は、そもそも貨物列車の重量に耐えられるのか。実現には多くの困難を伴う。
一方、ローカル線では、案の定、運休となっている芸備線、福塩線、木次線、姫新線、因美線などの閑散区間の廃止の噂が飛び交いだした。ここ福塩線の北部非電化区間もやはり運休続きで、復旧の目処すら立っていない。というより、何所でどんな災害が発生しているのかも伝わってこない。大幹線の山陽線に集中すべく、ローカル線は取り敢えず止めておこうということかもしれない。それ程、山陽線というのはJR西日本にとって生命線的な路線なのだろう。福塩線は、府中より南部の電化区間とは対照的に、北部は日に7往復の閑散区間だ。乗車人員13人/日のこの駅に再び列車が通う日が来るのだろうか。
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- 2018/07/14(土) 00:00:00|
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- 2018/07/12(木) 00:00:00|
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