
【ご案内】
このシリーズでは写真だけをご覧いただいております。個々の写真には題名も文書も付けていません。ごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。路線は小海線。撮影は2018年夏です。
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- 2018/06/30(土) 00:00:00|
- 小海線
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1977年7月 磐越西線 馬下
線路の先が夕靄の中にゆっくりと沈んでいく
そこにあるのは過去へと続くタイムトンネルか
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- 2018/06/28(木) 00:00:00|
- 磐越西線
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境港は呆れるほど妖怪染みた町だ
その不思議の町へ鬼太郎列車が誘う

2018年4月 境線 高松町(すねこすり駅)
境線に「鬼太郎列車」が走り出したのは、25年も前の1993年のことだ。境港市に「水木しげるロード」の整備が始まった時のことだった。その1993年の水木しげるロードの観光客数は、年間2万1千人だった。2010年に某放送協会の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」が放送されると、年間入込客数は一気に372万4千人にまでに膨らみ絶頂期を迎えた。その後は順減して、2017年は204万1,235人と発表されている。それでも、鳥取県の一大観光地である鳥取砂丘を大きく凌ぐ観光客を呼び込んでいる。
この事業の発端は、元境港市長の黒田哲夫氏の発案による妖怪ブロンズ像の設置だった。86体までいったところで、市の財政難で増設が打ち切られた。その後の、脱行政依存の凄まじい成長の仕掛け人は、民間出身の現境港市観光協会会長の桝田知身氏だ。国や自治体に頼らず、独自の創意工夫で民間資金を集めて、水木しげるロードの発展に尽くしてきた。補助金による箱物づくり観光が軒並み失敗する中、同じ中国地方の、岡山の倉敷美観地区や広島の宮島に匹敵する観光地を創り出した。
「鬼太郎列車」は、観光協会と連携した、JR米子支社の路線活性化の一環として行われている。2015年の輸送密度は2,554人/日であるが、JR発足時の1987年の3,022人/日からは後退したものの、他ローカル線の衰退に比べれば優秀な成績だ。国鉄時代に廃線も囁かれた時期もあったが、イラスト列車は代を重ねながら元気に走り続けている。2005年には各駅に妖怪名の愛称も付けられた。米子はねずみ男駅、境港は鬼太郎駅だ。町と鉄道を一体化させて活性化を狙うという作戦が功を奏している。
成功の要因は、市に縁の深い水木しげるさんという稀有な存在と、氏の全面的なバックアップに依るところも大きいが、「金が出せないなら知恵を出せ」を合言葉に、粘り強い活動を続けてきたことの勝利だろう。全国の自治体から視察が絶えないそうだが、脱行政依存の成功例を行政が視察して何を思うのだろうか。現在、水木しげるロードは新たな仕掛けづくりの最中で、7月14日にリニューアルオープンの予定だ。夜にはロード全線に妖怪の影絵が投射されるそうだ。折に触れて、また立ち寄ってみよう。




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- 2018/06/26(火) 00:00:00|
- 境線
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性懲りもなく、小海線の2018年版の「天空の時間 空に一番近い列車」をお送りしようと思います。今回も、バラバラのアップで、行けるところまでいこうと思います。秋風が吹き始める頃に、終わりにする積もりです。例によって、このシリーズでは写真のみの掲載と致します。
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- 2018/06/24(日) 00:00:00|
- 小海線
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雪解けとともに田圃の守り神も顔をだす
この村の土への祈りが繰り返される

1977年5月 只見線 入広瀬
人の一生は儚く短い 生れた時に必ず土に帰ることが約束されている
代を重ねることによってのみ、願いや思いを将来に繋げることが出来る
そんな代々の細やかな夢や希望が、伝来の田圃を望む墓石に宿っている
深い雪に閉ざされる山奥の山村であったころ、農作物だけが生きる糧だった
何はともあれ最初に願うのは豊作だ まさに、豊穣を呼ぶ土への祈りだ



亡き人を見守る墓石や石仏ですら、自然に抗うことは出来ず、形を失ってゆく
思いを受け継ぐはずの後継を失った墓所が、寂しげに野に帰ろうとしている
鉄道が通じ便利になると、逆に、一軒また一軒と農家の灯が消えて行った
駅は、働き盛りの若者を街へ、戦地へと送り出す別れの場所になってしまった
田圃を見渡す墓石と石仏が消え去った時、この村の一つの記憶が閉じられる



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- 2018/06/22(金) 00:00:00|
- 只見線・小出口
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花散らしの桜雨が降り続く
濡れたレールにヘッドライトが滲む

2018年4月 姫新線
日本には四季折々の雨の季節が在る。この写真の頃の春の雨は、花の名が付いたものだけで、桜雨、花時雨、菜種梅雨などがある。日本人の自然に対する繊細な感覚が、様々な雨の名を紡ぎ出してきた。多彩な表現によって、雨の微妙な表情の違いを言い表そうとしてきた。晴を表現する言葉より、雨を思う言葉の方が明らかに多彩だ。雨の日は、より自然への感情移入が高まるのだろう。
ということで、雨の日こそ頑張らなくてはならない。あ~雨だなどと凹んでいてはいられない。晴れの日も、雨の日も、一喜一憂することなく、淡々と撮り続けることだ。結果的に、好みの写真が撮れる確率は、どう見ても雨の日の方が高い。やはり、日本人だからだろうか。
季節は移ろい、次の雨の季節である梅雨に入った。近頃は、女梅雨と呼ばれる、しとしとと降り続く陰性の梅雨が鳴りを潜め、男梅雨と呼ばれる、降れば大雨、止めば晴天という陽性の梅雨が増えている。どちらが好みかは、人夫々だろうが、降り過ぎはやはり勘弁してほしい。
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- 2018/06/20(水) 00:00:00|
- 姫新線
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昭和の路地は子供たちの遊び場だった
路面電車が幾つもの路地を抜けてゆく

1976年6月 都電荒川線
昔は東京都心にも、こんな路地が至る所にあった。公園などという気の利いたものが少なかった時代、路地は子供たちの遊び場だった。学校の放課後には、薄暗くなるまで子供たちの歓声が響いていた。そんな路地には必ずと言っていいほど駄菓子屋があり、餓鬼の溜まり場になっていた。右角の店はそんな匂いのする店だ。店先のコカ・コーラはまだ瓶の時代で、栓抜きが付いている。
その店には、カンガルーマークのエーキドーパンの看板が掛かっている。近頃あまり聞かなくなった名だが、ネットで調べると、現在もしっかり営業を続けている。その会社の名は株式会社栄喜堂というが、どうやら今は、企業向けのパン、ケーキの冷凍中間製品に徹しているようだ。その世界に、そんな裏技があるとは知らなかった。イチゴをのせればショートケーキの出来上がりなんてことも。
そして、何といっても中華料理の大衆食堂だ。決してレストランなどと呼んではいけない。中華街のような立派なメニューを期待してもいけない。あるのは大概、ラーメンとチャーハン、かに玉くらいで、何故かカレーライスもあった。そして、麒麟だの、星だののビール会社のマークの入ったコップで水が出てくる。こんなラーメンマーク?の縁取りのある暖簾が揺れているのを見ると、何とも郷愁を誘う。
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- 2018/06/18(月) 00:00:00|
- 東京都電車
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夏には近在のC56が集められた
高原の風を切って野菜列車が往く

1970年8月 小海線 清里
KATOからNゲージの「C56小海線」が新発売されたとき、同時に「ツム1000 積荷付」と「コキ5500 通風コンテナ積載」の2種類の貨車もお目見えした。小海線の野菜列車を楽しむためのアイテムで、なかなか気の利いた趣向だ。ただ、小海線の実車の写真で、野菜列車の露出度が高いとは思えない。そんなわけで、今回は高原のポニーのツム100通しの野菜列車で行きたい。
当時、野辺山と信濃川上の中間辺りの川上村に、野菜列車の発着場があった。もちろん旅客の扱いはなく、転車台もない、夏季限定の簡素な施設だった。今もそこには高原野菜の集荷場があり、朝晩2回のトラック輸送が行われている。写真は高原レタスを満載して、バックで山を下りる野菜列車だ。積荷が痛まないようにツムの戸は全車開け放たれている。C56時代の夏の小海線の風物詩だった。
小海線は1972年に無煙化された。翌年には、塚本和也さんが当時の磯崎国鉄総裁を動かして、夏の週末だけだったが、再び小海線にC56が走った。それが、氏が名付け親の「高原のポニー」の最後だった。それから45年間、小海線での蒸気機関車の運行は封印されてきた。沿線には多くの小海線絡みのC56が静態保存されているが、何れも状態は芳しくない。本線復帰が望める罐も皆無といっていい。
先日、その塚本さんが亡くなられた。折しも79年間現役を通してきたC56160が本線から去った直後だった。氏を最後にお見かけしたのは、2016年7月の野辺山駅だった。氏が所持していたC5626の動輪が、駅前でお披露目された時のことだった。悲しいことに、「高原のポニー」との2度目の別れになった。小海線ホームの「駅舎の灯」としても、高原のC56の在りし日の姿を捧げ、塚本さんのご冥福を祈りたい。

小淵沢でのキハ52とのツーショット
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- 2018/06/16(土) 00:00:00|
- 小海線
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浦富海岸の小駅に久々に賑わいが戻った
長い交換設備に長大編成の瑞風が鎮座する

2018年4月 山陰本線 東浜

この鳥取県岩美郡岩美町にある東浜には、ここ数年、毎春立ち寄っている。バックに日本百景の浦富海岸を望む眺めが気に入っている。世界ジオパークにも認定されている。今年、この駅の異変に気が付いた。この静かな海辺の小駅が、2017年6月に運行が始まった「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」の停車駅になっていた。
1枚目の写真の左端に、その豪華列車の到着が写っている。全くマークしていなかったスジなので、突然現れた感じだ。駅前にはリムジンバスが待ち受け、裕福な乗客らは、浦富海岸の立ち寄り観光へと向かった。取り巻きの鉄も現れて、この駅にしてみれば、集落が臨海学校で繁盛していた時代以来の賑わいになったことだろう。
瑞風の東浜での停車時間は3時間程だ。ちょいと駅に見物に行ってみる。駅舎がガラスとステンレスの造形物に化け、近隣には乗客用のレストランと遊歩道が造られていた。何れもが、瑞風のエクステリアを監修した浦一也氏のデザインというが、こあらま的にはどうみてもやり過ぎだ。千載一遇のチャンスとばかりの町おこしの一環なのだろうが、箱物頼みはやはり先が知れている。負の「レガシー」にもなりかねない。
普段の東浜では、交換時を除いて、上下列車とも出入口のある直線通過の1番線を使用する。この時ばかりはピッカピカの瑞風に占領されてしまう。こんな海辺に長々と停まっていたら、ウミネコに鏡のような車体を汚されまっせ。


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- 2018/06/14(木) 00:00:00|
- 山陰本線
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オホーツクの小集落を縫って短い貨物が往く
沿線風景の美しさはローカル線随一だった

1975年3月 湧網線 計呂地
素晴しい。勿論写真の出来ではない。湧網線が走っていた沿線風景のことだ。この計呂地の浜床丹側にあったカーブは、湧網線きってのお立ち台だった。「湧網線 計呂地 キューロク」をヤフーで検索すると、現役蒸気ブログをリードしてきた、まこべえさん、アンギュロンさん、くろくまさんの写真がどっと出てくる。たった日に1往復の路線だったが、北辺のキューロク好きには絶対に外せないところだった。それほど、唯一無二のオホーツクの美しい沿線風景だった。
このブログでは、一応季節に合わせた写真を上梓するように心掛けてる。今回は、私的な曖昧な記憶の検証のために、例外的に季節外れの一枚をアップすることにした。情けないことに、43年前のこの日の出来事の記憶がはっきりしない。このシーンを一緒に撮った方がおられたかを確かめるためだ。当時の北海道では多くの方々と知り合った。一緒に塩狩ユース泊まることになった方もいたのだが、名前すら思い出せない。もしこのブログを見ていたら教えてほしい。
さてさて、どうしてこんな安っぽい構図の写真を撮ったのだろうか。先の諸先輩方の写真は、どれもすっきりしている。多分、計呂地の集落や周辺風景を出来るだけ広く写したかったのだろう。このお立ち台の抜けは、いったいどうなっていたのだろうか。キハでリベンジと行きたいところだが、それも叶わない。
この罐は「69620」、牽いているのは、ボギー台車の有蓋緩急車の「ワムフ100形」の1両のみだ。
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- 2018/06/12(火) 00:00:00|
- 湧網線
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