津軽最果ての駅は雨模様だった
列車が滞在する僅かな時間、駅が生き返る

2017年10月 津軽線 三厩

津軽海峡はどんよりとした雨雲に包まれていた。厚い雲に覆われた空は、早々に光を失っていった。17時24分、雨が降りしきる中、蟹田からの339Dが定刻で到着し、数人の乗客は、肩をすぼめて足早に駅を去って行った。列車では、直ぐに運転士と車掌が入れ替わり、折り返しの態勢がとられた。静まり返っていた構内に、暫しの間、キハのアイドリング音が響く。
ここ三厩は津軽線の終着駅だが、今別の市街地を通り越した、閑散たる場所に位置する。当初の計画では、津軽半島をぐるっと回って五所川原に到達するはずだったが、計画倒れに終わった。もし、計画通りに進められていれば、津軽鉄道は津軽線に吸収されていたはずだ。そんな訳で、たまたま人気の少ない三厩が終着駅になってしまった。しかしながら、日に5往復のキハが通う過疎区間だが、三厩は運転取扱い業務を行う有人駅だ。駅舎は開業時からの木造で来年還暦を迎える。駅名票の傍らに「津軽半島最北端の駅」を謳っているが、本州最北端は陸奥湾を挟んだ隣の下北半島にある大湊線の下北駅となる。





そろそろ折り返しの344D蟹田行きの出発時刻が近づいた。先程、発券窓口のPOSで入場券を発行してくれた駅長氏は、何時の間にか作業服を着てホームに立ち、合図灯で運転士に出発の安全を伝えている。22分の停車時間が終わり、17時46分に三厩を後にした。5時台だというのに、この列車が上りの最終列車で、駅長氏の勤務もここまでだ。この列車が、345Dとして再び下りの最終で戻って来るのは19時48分で、三厩での駐泊となる。構内の外れには2両分の車庫があり、駅舎の並びには乗務員の休憩・宿泊のための建屋もある。明朝、三厩始発の一番列車で高校生を送り出すのが、津軽線の最も大事な仕事だ。


列車がいなくなり、再び静寂の時間が流れ出す。これで津軽海峡の潮騒でも聞こえて来れば、如何にも津軽の最果ての駅といった風情となるのだが、残念ながら海からは少々離れている。間もなく雨が雪へと変わる季節だ。何時か津軽海峡冬景色でも眺めに来よう。

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- 2017/11/29(水) 00:00:00|
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今年も豊ヶ岡の木々が色付いた
超過疎ダイヤの人気列車が往く

2017年10月 札沼線 豊ヶ岡
下りの新十津川行きがやって来た。浦臼から先に足を延ばすのは、日にたった一本のこの列車だけだ。限界ダイヤは3往復だと勝手に決めつけていたが、昨春のダイヤ改正で、ここ札沼線に1往復という珍妙な区間が現れた。車内は大いに込み合っているが、乗客のほぼ全てが限定1往復に魅せられた乗り鉄氏の集団だ。終点の新十津川では、滝川に歩いて移動する方も居られるが、多くは折り返しの上りの石狩当別行で、そのまま引き返してくる。そんな事情からか、この列車には運転士以外にも御目付役の車掌氏が乗務している。札沼線の名物列車と云ったところだ。
札沼線にはもう一つ人気スポットがある。それがここ豊ヶ岡だ。札沼線の非電化区間の多くでは、田園地帯を国道と並走しながら北上していくことになるが、この駅だけは国道から離れた開拓地の林の中にある。月形町の豊ケ岡にあり、地区の請願によって設けられた駅だけあって、大変分かりづらい場所にあり、駅周辺に標識もない。このオーバークロスがなければ、容易には見つけ出せないだろう。人気スポットのお決まりの写真になってしまうが、それでも行ってみたくなる魅力のある場所だ。今年の紅葉は少々精彩を欠いてはいたが、それでも秋らしい眺めだった。
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- 2017/11/27(月) 00:00:00|
- 札沼線
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秋日の好天に、稲刈りが真っ盛りだ
パッチワークの田圃を、余生僅かなキハが往く

2017年10月 男鹿線 脇本
男鹿線は路線距離26.6kmの盲腸線だが、沿線風景は至って単調で、これといった撮影名所は見当たらない。以前は上野発着の急行「男鹿」やタンカーがDD51牽引で運行されていたが、今は普通列車が通うだけとなった。そんな男鹿線で、唯一撮ってみたかったのがここ脇本俯瞰だった。たった一か所のためでは、なかなか足が向かなかったが、蓄電池車への置き換えが進んでいるので、旧型車が走るうちにと訪れてみた。稲穂の海をゆく光景は、只見線の蓋沼俯瞰があまりにも有名だが、各地にプチ蓋沼は存在する。ここ脇本も眺望の素晴らしさは蓋沼を凌ぐものがあるが、少し時期が遅く、稲刈りの最中に当ってしまった。巧い具合に格子状の田圃がパッチワークになっていてくれたのは有難いが、派手なアキュムの方が目立ったかも知れない。
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- 2017/11/25(土) 00:00:00|
- 男鹿線
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最北のキューロクがオホーツクの町々を巡る
早春の猿払を吹く風は、まだまだ冷たかった

1973年4月 天北線 鬼志別
天北線1791レが鬼志別に到着した。停車時間は30分程で、給水や火床整理などが行われる。機関車周りの雪が炭殻で汚れているのはそのせいだ。機関助士はテンダーに登り石炭を掻き寄せている。強風に暴れる煙と、機関士の被る目出し帽が、否応なしに北辺の雰囲気を醸し出す。最北の稚内機関区の受持ちは、宗谷本線北部、天北線、興浜北線の3路線だった。利尻の絶景を背景にC55の走る宗谷本線の陰で、天北線は地味な存在だったが、オホーツクの海岸に連なる町々は、宗谷本線とは異なる趣がある。この鬼志別は猿払村の中心駅で、急行「天北」の停車駅でもあった。
当時、音威子府・浜頓別間に区間貨物が1往復あったが、天北線全線を走り抜ける貨物列車は、1791レ・1792レの1往復のみで、浜頓別以北は撮影効率の頗る悪い場所だった。下りの1791レは、全線148.9kmを7時間程の時間を掛けて、貨物取扱駅の一つ一つに停車していくが、貨物も含めて上り列車との交換は6回あるが、追い抜いてゆく列車はない。つまり、この列車とのご対面は、どんなに頑張っても一日一回限りとなってしまう。今なら、追っかけで何度となく撮れそうなものだが、当時は30分の停車時間を利用して、駅の両側と停車風景を撮るのが精一杯だった。
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- 2017/11/23(木) 00:00:00|
- 天北線
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美瑛の丘の影が伸びてきた
夕日を浴びて農作業の手が早まる

2017年10月 富良野線 美瑛
美瑛の開拓が始まったのは1894年のことで、それまでは神楽村の未開地でしかなかった。1900年に美瑛村として分村し、自治体としての美瑛が誕生した。十勝連峰の噴火活動によって形造られたなだらかな波状丘陵は、畑作地として格子状に開墾され、谷の平地には水田が開かれた。畑作では小麦、大豆、甜菜、馬鈴薯などが作られるようになったが、連作を避けるために格子状の区画毎に、作物が輪作されるため、「パッチワーク」の景観が作り出された。農業機械の大型化で、格子のサイズも大きくなったため、昔のような肌理の細かいパッチは見られなくなってしまったが、その独特な景観は北海道を代表する観光地の一つに成長した。今では、観光客の農地への立ち入りが問題となっているが、この景観は農業生産活動によって維持されていることを念頭に、観光開発を展開して欲しいものだ。
この美瑛に旭川から鉄道が通ったのは1899年のことだ。当初は帯広、釧路へと続く、十勝線(現根室本線)として延伸されていったが、滝川から富良野へのルートが開通した際に、富良野線として分離された。ここ美瑛でパッチワークの丘を往く列車が眺められれば、最高の撮影場所になっていたことは間違いないが、そうは上手い具合には行かない。富良野線は丘の合間を縫うようにパッチワークの丘陵地帯を抜けて行く。そこには耕地化されていない深い林が残り、サイドからの視界は望めない。今回も、幻の抜けを見つけようと探し回ったが、空しく徒労に終わってしまった。丘陵を見渡せる観光用の展望台が何か所かにあるが、どうして富良野線が見えないのか不思議なくらいだ。秋の陽が傾き、丘の影が伸びてきた。次善の策として確かめておいた、周知のポイントで列車を見送ることとなった。
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- 2017/11/21(火) 00:00:00|
- 富良野線
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秋の日に輝く塩狩にサロベツが勢いよく進入してきた
軌道も車両も高速化された宗谷南線の今の姿だ

2017年10月 宗谷本線 塩狩
宗谷本線には、かつて「利尻」、「礼文」、「天北」といった優等列車があったが、この春からは札幌発着の「宗谷」の1往復、旭川発着の「サロベツ」の2往復の特急が稚内とを往復している。「サロベツ」が旭川発着なのは、盛況のための車両不足からということだ。何れにも高速車両の261系が使用されており、「スーパー宗谷」名は使用されなくなった。旭川発の61Dサロベツ1号が塩狩に進入してきた。2000年に完成した旭川・名寄間の高速化事業の一環で、塩狩の駅舎寄りの1線が両端片開き分岐になり、通過線の役割を果たしている。上下の特急は減速することなく塩狩を高速で通過していく。構内を見下ろす場所に建つ記念館の、三浦綾子の「塩狩峠」の時代とは隔世の感だろう。
実はこの車両も地上設備もJR北海道のものではない。北海道高速鉄道開発株式会社の所有となっている。この会社はJR北海道と道・沿線自治体の折半で設立された第三セクターで、石勝線・根室本線高速化事業、宗谷本線高速化事業、札沼線電化事業などを行ってきたが、その主たる原資はなんと国土交通省からの補助金だ。「スーパーおおぞら」や「スーパー宗谷」が登場できたのは、国税のお陰ということだ。一方では、国の意向で、北海道新幹線の施設使用料の殆どはJR東日本が負担している。こうやって、陰で中途半端で無責任な干渉をするくらいなら、国が前面の立って、もっと根本的かつオープンな議論をすべきだろう。全国的な基幹交通体系をデザインするのは国の責務だ。

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- 2017/11/19(日) 00:00:00|
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駒ヶ岳を仰ぎ見る学び舎が夕日に染まった
現代の貨物列車が力強くサミットを越えて往く

2017年10月 函館本線 駒ヶ岳
ここ駒ヶ岳を訪れたのは、駅のすぐそばにある森町立駒ヶ岳小学校の学び舎を観賞するためだ。以前から、この駒ヶ岳を仰ぎ見る木造校舎の佇まいが気に入っている。1883年に宿野辺小学校として開校し、町史には新改築の記載はないが、さすがに築134年は如何なものだろうか。長らく駒ヶ岳中学校が同居していたが森中学校に統合され、今ここに通うのは小学生だけになっている。現在、森町の小学校は森、さわら、駒ヶ岳、石倉、鷲ノ木、尾白内、濁川の7校、中学校は森、佐原の2校、高校は道立森の1校となっている。学校のある場所と廃校になった処を調べることで、その自治体の人口分布と推移が概ね分かるというものだ。隣の赤井川の小中学校は既に廃校になっている。反対隣の姫川の小学校も消えてしまった。つまり、駒ヶ岳西麓の扇状地に残された学校は、この駒ヶ岳小学校ひとつだけということになる。
この駒ヶ岳駅が開業したのは1903年のことで、さすがは本線筋の駅だけあって既に114年の歴史を刻んできた。同時期に赤井川駅も設置されている。この辺りは駒ヶ岳の噴火による堆積物によって形づくられた丘陵地帯であるため、水稲の栽培には向かず、入植者は主に畑作や牧畜で生計を立ててきた。広大な畑の中に農家が点在するが、どうやら通学の児童たちの多くは、国道沿いに新たに開けた農家ではない集落の子供たちのようだ。古い木造校舎の眺めは郷愁を呼び起こすものだが、裏を返せば、先がないので手が入れられなかったとも考えられる。次回来た時には、この建物は学び舎ではなくなっているかもしれない。近隣には移住者を呼び込むための分譲地も開発され、温泉施設などもある土地柄なので、流行りものの工房などになっているかもしれない。何れにしても、壊すにはあまりにも惜しい木造校舎だ。
さて、現在、駒ヶ岳から森までの13.0kmには駅は存在しない。この春までは東山、姫川の2駅があったが、ともに廃止されている。この2駅の出発点はどちらも信号場で、姫川と森の間には、かつて森川信号場というのまで存在していた。現在も列車運行上、姫川は信号場として機能しており、駒ヶ岳、赤井川の交換設備も健在だ。勾配区間の最中にあった東山と森川の二つの信号場は、蒸気機関車のためのスイッチバックの加速線を有していた。今は棒線化されているが、その遺構を僅かながら偲ぶことができる。太平洋戦争末期の函館本線は、道内炭を内地に送りだす使命を負っていた。その石炭列車の大増発に対応すべく、時同じくして多くの信号場が増設されたが、終戦と佐原線の開通によって、それらの信号場の多くが役目を終えている。また何時か函館本線に信号場の増設が必要となる日が来ることを期待しよう。

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- 2017/11/17(金) 00:00:00|
- 函館本線
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塩狩峠の彩の季節も終わりが近い
間もなく雪と防雪林のモノトーンの世界となる

2017年10月 宗谷本線 蘭留
塩狩峠の宗谷線は両脇に鉄道防雪林を抱えているので、とにかくサイドからの視界が利かないのが悩みだ。俯瞰も限られ、この眺めが唯一といっていいかもしれない。現場までは熊笹の藪漕ぎを少々強いられるが、内地のものと違って道内の熊笹は巨大で固い。優に人の丈を超えているので、これまた見通しが利かず苦労する。もっと恐ろしいのはヒグマだ。蘭留駅近辺でもヒグマの目撃情報は絶えない。そんな場所での、熊笹に埋もれながらの藪漕ぎはスリル満点だ。そう簡単には出くわさないはずだが、出会ってしまえば万事休すだ。内地のツキノワグマと違ってこちらも巨大で、オスのヒグマは500kgにもなるというから軽自動車ほどで、勝負になるはずもない。
宗谷線は等高線に沿うように右に左にカーブしながら塩狩を目指すが、国道は手前を真直ぐに登っている。宗谷線の向こうには、道央自動車道がこれまた一直線に走っているが、こちらは影も形も見えない。それだけ木が大きく、森が深いということだ。塩狩は左手になるが、宗谷線も僅かに開けたこのカーブを過ぎてしまうと、樹海の中へと消え去ってしまう。冬になれば、もう少し見えてくるようにも思えるが、常緑針葉樹の防雪林はどこまでも手強そうだ。この時、下りの快速「なよろ」に大きな遅れが生じ、ダイヤがかなり乱れていた。ドコトレがあるわけでもなし、さすがに何時もの手持ちでは耐えられないので、三脚使用でレリーズを握り続けることになった。
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- 2017/11/15(水) 00:00:00|
- 宗谷本線
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北の都函館に街の灯が燈った
路面電車のある街並みはこんなにも美しい

2017年10月 函館市企業局交通部(函館市電)
路面電車にあるのは駅ではなく停留所で、通常は待合のための建屋もないので、「駅舎の灯」というのは些か適切ではないが、そこは雰囲気で受止めて頂きたい。この通称函館市電の正式名称は函館市企業局交通部という。函館に路面電車が走り出して104年になる。1943年11月1日に道南電気軌道が函館市に譲渡され、市電の歴史が始まった。2013年には70周年を迎えている。ここの路面電車もご多聞に漏れず、モータリゼーションの進展と市中心部の空洞化のため、利用者を大きく減らし、路線も最盛期の1/3程になってしまった。かつては、東雲線や宮前線などもあったが、今では2系統だけだ。ところが、ここ数年僅かではあるが回復の兆しが出てきた。旅行客やお年寄りの利用が増えているようだ。赤字体質からの脱却は微妙だが、市民からの支持も得ているので、当面は安泰だろう。
近頃、新たにLRTの導入を検討する自治体が急増中だ。都市内交通としての路面電車の良さが見直されてきているのだろうが、実際に建設するとなるとそう簡単ではない。市民のコンセンサスが得られなかったり、予算が計上できなかったりで、実現させたのは数えるほどだ。そうなると、苦しいながらも路面電車を守り続けてきた都市は鼻高々だろう。何れの街からも廃止の噂が聞こえてこないばかりか、延伸計画が飛び出すほどだ。函館市電でも、湯の川・函館空港間の延伸に多くの市民から要望が寄せられているそうだが、市は及び腰のようだ。早まって、北海道新幹線のために函館駅の改装と再開発に大枚を叩いてしまったことが悔やまれる。空港から市電で市街にアクセスできれば、素晴しい観光都市になることは間違えないが、無理な背伸びは禁物だ。その日が来ることを静かに待とう。
ここ五稜郭公園前は、函館駅前と並んで利用客の多い停留所だ。2015年の改装で千鳥式ホームに変り、少しだけホームにもゆとりができ、自動車車線との隔壁も全面になった。市は地上設備の改良を進めており、順次洒落た停留所に生まれ変わっていくことだろう。秋の日が落ち、すっかり暗くなり、函館の街に灯が燈った。帰宅ラッシュの時間帯を迎え、市電も函バスも甲斐甲斐しく走り回る。路面電車のある街並みは本当に美しい。思わず、こんな街に住んでみたくなるというものだ。東京も路面電車が縦横に走り回る都市だったが、前回のオリンピックの際に多くが廃止に追い込まれた。もし今回、レガシーが必要というのなら、都電を返してほしい。間もなく北の都は雪の季節を迎えるが、この眺めが雪化粧するのを想像してみよう。今や、観光都市函館には市電はなくてはならないものだ。

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- 2017/11/13(月) 00:00:00|
- 函館市電
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日本海の風雪から身を守るように民家が寄り添う
冬の訪れを前に秋の陽光に青い海原が広がる

2017年10月 羽越本線
初めて特急「いなほ」を見たのは50年近く前の赤羽で、ブルドック顔のキハ80系時代だった。1972年に羽越線が電化され、485系特急型電車が導入された。北海道行きの往路に、その485系「いなほ」を上野から完全乗車して青森まで行ってみたことがある。蒸気時代に訪れた羽越線、奥羽線の沿線風景をもう一度見たくなったからだ。列車が奥羽線に入る頃にはとっぷりと日が暮れ、駅名票を追うことくらいしかできなかった。秋田・青森間は殆ど乗客がいなかったことを記憶している。それから「いなほ」との接点は皆無だった。今では、国鉄形が引退してJR形の車両が充当されていることは知っていたが、近頃のパンタグラフの付いた車輌に疎い身としては、形式すら知らなかった。
今回の羽越線訪問の主な目的はキハ40で、貨物好きとしては日本海縦貫貨物は外せないものの、特急電車に関しては完全に二の次だった。この場所でもキハ40を狙っていたが、たまたま直前に通過した「いなほ」で試し撮りをしてみた。本命のキハ40の2連と比べてみると、どう見てもE653系の7連の方が見栄えがよいので、まずは「いなほ」をアップすることにした。なかなかその違いを言い表せないが、短編成が似合う写真と、長編成が似合う写真とがある。きっちりその辺を見極められるのが腕なのだろうが未熟だった。願わくは、ここでC57の客レを撮ってみたいところだが、復活蒸気では近寄り難い人だかりだろう。せめて次回はもっとワイドに日本海貨物でも狙ってみよう。
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- 2017/11/11(土) 00:00:00|
- 羽越本線
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