早いもので9月も末日になりました。今年の「天空の時間 空に一番近い列車」も今回で終わりです。この夏は天候不順に散々苦しめられましたが、一方で小海線に「HIGH RAIL 1375」が登場しました。日中の「HIGH RAIL 1号」と「HIGH RAIL 2号」、夜間の「HIGH RAIL 星空」の3本が営業運行されていますが、「星空」は小淵沢を18:20に出発します。ちょうど夕刻の空白の時間帯を埋める列車として重宝しましたが、日没が日に日に早まり、既にこの列車も撮影対象ではなくなり、天空の時間のベストシーズンが終わりました。最終回にどんな写真をアップするか悩みましたが、今回は3作を一挙にアップして全10作とすることにしました。現在、小海線沿線は稲刈りの時期を迎えています。稲架掛けが終わる頃、紅葉が始まり、南アルプスや八ヶ岳の初冠雪を記録します。間もなく高原は静寂の時間を取り戻します。
No.8
No.9
No.10
お知らせ諸事情により暫く更新が出来ませんので、次回からは写真メインの「東北の秋」を予約更新でお送りします。何れも昨秋の撮影です。少々長くなりそうですが、更新は続きますので、お楽しみいただければ幸いです。
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- 2017/09/30(土) 00:00:00|
- 小海線
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梅ケ峠を越えると下関近郊だ
駅のホームにも街の匂いがする

2017年5月 山陰本線 梅ケ峠
山陰本線も小串を過ぎ、長閑な黒井村、梅ケ峠の内陸部を抜けて吉見まで来ると、幡生までは10km程となり下関の郊外へと入る。安岡と綾羅木の間に梶栗郷台地という知らない駅が開業していた。もともと梶栗という駅があったらしいが、太平洋戦争の影響などで1941年に廃止されている。昨今、下関市街地のニュータウンとして周辺の開発が進んだため、67年ぶりの2008年に駅が復活したとのことだ。山陰線の最後の区間は、ローカル線の風情ではなく、住宅地が続く市街地を往く近郊列車となって幡生に辿り着いた。
長々と連載してきた山陰線の旅も終わりとなった。非電化区間が始まる兵庫県豊岡市の竹野からでも500kmを超える長丁場だ。山陰線の素晴らしいところは、長距離路線にも拘わらず、次から次へと写真心を擽るような場所が現れることだ。特に山陰海岸の美しさと石州瓦の集落は絶品だ。今はもう一体路線としての役目を終え、継ぎ接ぎ路線のような運行状況だが、今年からは「瑞風」が山陰線全線を駆け抜けている。萩―長門市間のように超の付くローカル線と化してしまった区間もあるが、全線が繋がっていての物種だ。鉄道の利用価値に観光が加わって浮かばれる線区もある。JR西日本もこの長大在来線を維持してきた甲斐があったというものだろう。どんな形であれ、列車が走り鉄路が守られることが肝要だ。いつまでも、山陰線が途切れることなく、1本のレールで繋がっていることを願って、この連載を終わりにしたい。

2017年5月 山陰本線 吉見

山陰線の終点は幡生だが、列車は下関を始発・終着にしている。その下関で出発を待つ長門市の罐の牽く客レは、前編の最終回にアップした列車のカラーバージョンだ。多くの蒸気機関車をカメラに収めてきたが、ネオンサインを背景にしたものは極めて稀だ。新しいものと古いものが混然一体とした不思議な眺めだ。山陰線下関口が無煙化されたのは、翌1974年の11月末だった。

1973年7月 山陽本線 下関
これで「青葉の山陰線を往く」の全編を終わります。
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- 2017/09/28(木) 00:00:00|
- 山陰本線
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金子坂にデゴイチ貨物が差しかかった
逸る気持ちをグッと堪えてチャンスを待つ

1970年2月 八高線 金子
事始めのこの頃使っていたカメラは、オヤジの距離計連動の「PETRI35 F2」だった。レンズはガウス型4群6枚の「Orikkor 45mm/F2.0」というのが付いている。このレンズが「お利口」かどうかは知らないが、面白い命名だと結構気に入っている。当時のネガを見ると、全く引き付けが足りなく、罐が片隅にしか写っていないものや、罐や編成が無残にブチ切れているものなど、惨憺たるものだ。今時の視野率100%などと違って、この手のレンジファインダーカメラは、視野は大雑把なうえに見え方も決して明瞭とは言えないものだが、そんな事情を差し引いても、弁解できるような代物ではない。当時のフィルム事情では、連写などありえず、一列車一枚が原則だった。逸る気持ちを抑えきれず、ついつい早くシャッターを切ってしまっていたのだろう。まさに若気の至りだ。そんな中で、珍しく上手く画角にはまったのがこの写真だ。おまけに盛大なドレインサービスも付いている。今なら何てことない写真だが、当時はちょっと自慢げな心持ちになったことを覚えている。写真の良し悪しはさて置いて、私的には懐かしさいっぱいの事始めの頃の貴重な一枚だ。
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- 2017/09/26(火) 00:00:00|
- 八高線
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ススキ野を揺らして列車が晩秋を往く
まもなく雪虫が舞い初雪がやって来る

2016年10月 留萌本線 留萌
尾花もそろそろ終わりに近づき、朝晩の冷え込みが日に日に強まる頃、雪虫が舞い始める。北国の晩秋の風物詩だ。飛ぶ姿は天使の様だが、正体はあくまでアブラムシの一種だ。この手のアブラムシは、日本に広く分布しており、井上靖の伊豆半島を舞台にした小説の題名ともなった「しろばんば」も雪虫のひとつの呼び名だ。小説家が幼少期を過ごした伊豆湯ヶ島では、晩秋にこの虫が舞うさまがよく見られたのであろう。少し前まで、猛暑と熱中症が毎日のニュースで連呼されていたが、やっと秋風が吹き出した。最近では夏が長くなり、春秋が短くなったような気がする。短くなった秋は足早に通り過ぎて行く。油断をすると、あっと言う間に雪虫が舞ってしまう。
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- 2017/09/24(日) 00:00:00|
- 留萌本線
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小串海岸は変わらず美しい海岸だった
昔も今も穏やかな渚が迎えてくれた

2017年5月 山陰本線 湯玉

1973年7月 同所
いよいよ美しい山陰海岸が眺められる最後の区間となった。逆に、下関側からの最初の景勝地が湯玉―小串間の小串海岸となる。その昔、山陰線のD51を初めて撮りに来た時には、京都からの夜行急行「雲仙3号」を下関で降り、早朝の列車でここ小串に着いている。一日を掛けて湯玉まで歩き、夜に下関に戻るという、何とも悠長な旅程だった。今では、美味しい所を摘み食いするかのように、さっさと駒を進めていくが、旅の密度もそれなりということだろう。列車本数もグッと少なくなっているので、朝晩に鉄撮りをして、日中は非鉄に興じるというのが、今の旅のスタイルだ。
例によって、期せずして核心部は今昔物となった。別に同じアングルを探したわけではないが、結果的に同じになった。幸いなことに、昔と変わらぬ美しい海岸線の眺めだが、どう云う訳か松の木が激減している。松くい虫の被害にでも遭ってしまったのだろうか。残念なことだが、どう見てもこの日本的な海岸線には松が在った方が風情があるように思う。D51の写真は、景色がよく見えるように罐が遠目のものにしたが、半流のD51の牽く貨物列車だ。当時であれば、こんなタラコのキハなどには、見向きもしなかっただろうが、今となっては、当時を偲べる数少ない国鉄型気動車だ。

この区間で「西長門ブルーライン」の愛称をもつ国道191号線は、山陰線と並行して益田、そして広島へと伸びている。D51時代にはこんなに立派な道ではなかった。その頃、少なからぬ地方国道が砂利道だった。その後、次々と改修がなされ、車社会が到来した。立派な国道と並んで走るか細い鉄路。車と鉄道が共存していける社会であってほしいものだ。
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- 2017/09/22(金) 00:00:00|
- 山陰本線
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1977年6月 八高線 明覚
こんなにエコでバリアの小さい渡線路が、どうして減ってしまったのだろうか
ローカル線の跨線橋など、年寄り返しの無用の長物だ
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- 2017/09/20(水) 00:00:00|
- 八高線
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新緑に包まれて、とびっきりの難読駅が佇んでいた
海岸の駅とは趣の異なる、緑の香りのする場所だ

2017年4月 山陰本線 特牛
難読駅名も難しさが群を抜けば、逆に皆の知るところとなる。そのいい例がこの特牛だろう。さまざまなメディアに取り上げられ続けているので、知名度はかなり高い。当然、鉄道ファンの間では誰もが知る有名駅だ。この特牛から滝部に向かう列車には、25‰の急勾配が待ち構えている。山陰線にまだD51が走っていた頃、その力走を求めて全国から多くのファンが撮影に訪れた。そんな撮影の記事を雑誌などで読み、「こっとい」という読みを知った。
この駅に来るのは、そのD51の時代以来のことだ。この駅が無人化されたのは国鉄時代の1971年のことで、同じ頃に島式ホーム2面2線の交換設備も閉じられ、棒線化された。その後、元国鉄職員が駅舎の空いた事務スペースを利用して食料品店を営んでいたらしいが、2001年頃にこちらも敢え無く閉店となったとのことだ。駅舎は開業当時の木造駅舎らしいが、売店開設時のものと思われる改装で新建材だらけになり、外観に開業時の趣は感じられない。
駅は少し内陸に入ったところにあるので、中心となる海辺の集落と港からは3kmほど離れている。駅は民家が点在する田畑から少し登ったところにある。緑に包まれた何とも長閑な駅だが、昔はちょっとした交通の要だったようだ。角島とを結ぶバス路線の停留所が駅前にあり、通学の生徒で賑わっていたという。映画のロケで「いがみはた」という駅に化けたことがあり、聖地巡礼のための観光客のため、臨時列車が走ったという、嘘のような話もある。

7時50分発の下りの滝部止りの列車が単車で到着したが、乗車する人はおらず、女性が一人降りてきただけだ。通学は6時台の列車で終わっていたようだ。2015年の平均利用者数は32人とあるので、10人くらいの生徒が乗車したはずだが、残念なことをした。もうすこし計画を詰めておけばよかった。


以前はこのホームが島式2面2線であったことがよく解る。前方のポイントが残され、行き止まりのごく短い引込線になっている。こちらが滝部方面で、この先に25‰の登り坂がある。D51の牽く客レは、特牛を出ると勢いよく加速していた。以前の構内踏切を渡って、白い手すりの階段を下ると駅舎がある。


駅舎は大幅に改装されてしまっているが、どう云う訳か古めかしいラッチが残されていた。擦り減り具合から見て、開業時からのものだろう。開業したのが1928年、無人化されたのが1971年。このラッチで駅員氏が出迎えをした年月よりも、ラッチだけが鎮座していた年月の方が長くなってしまった。

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- 2017/09/18(月) 00:00:00|
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天高く晴れ渡った青空の下、稲刈りが続く
真っ直ぐに伸びる線路も、すっかり秋色だ

2016年10月 秋田内陸縦貫鉄道 松葉
大型で非常に強い勢力の台風18号タリムが日本列島を縦断する気配だ。稲穂がたわわに実るこの時期、稲作農家にとっての最大の心配事が台風の襲来だ。天気がいいうちに、刈れるところはさっさと刈ってしまおうと、コンバインが走り回った地域もあっただろう。稲が風で倒れてしまうとコンバインで刈るにはひと手間必要になる。その後に雨が続けば、籾から発芽して食用にはならないということにもなりかねない。日本の雑節である二百十日、二百二十日、八朔は、農家の三大厄日とされている。それぞれの厄日は今年は、9月1日、9月11日、9月20日ということになる。まさに、今時分は台風の季節ということだ。
以前、台風襲撃直後の東北を旅したことがある。東北のリンゴ産地で甚大な被害をだした台風だったが、リンゴ農家の軒先には、落下して売り物にならなくなったリンゴが、山のように放置されていた。打ち身の程度の少ないものがタダ同然で売られていたので、車に詰めるだけ買って帰ったことがある。保険で補償される農家もあるだろうが、丹精込めた作物が駄目になって喜ぶ農家が在ろうはずもない。今回の18号はその1991年の19号、通称「リンゴ台風」に類似しているようだ。残念ながら農作物の台風への備えなど高が知れている。台風が逸れることを祈るばかりだ。天高くリンゴ実る秋で在ってほしいものだ。
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- 2017/09/16(土) 00:00:00|
- 秋田内陸縦貫鉄道
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夜が明けきらぬ大沼の朝 上下の普通列車がすれ違う
東の空にも大沼の湖畔にも、秋の紅が差していた

2016年10月 函館本線 大沼 6時23分 藤城線 5881D 森行き 既に対向列車が見えている
ここは函館本線の大沼の函館寄りのポイントだが、線路が2本走っている。上り線と下り線なら話は簡単だが、山側の1本は、七飯から渡島大野、仁山を経由して大沼に向かう本来の函館本線の筋。湖岸側のもう1本は、七飯から途中駅無しで大沼に向かう通称藤城線のルートだ。藤城線は、仁山越えの急勾配を緩和するために1966年に後付けで建設されたもので、主に下り線として使われていた。つまり、藤城線開通後は、原則、下りの旧大野町、現北斗市の玄関駅である渡島大野に用のない優等列車と貨物列車は藤城線を走り、各駅停車のみが仁山経由を走っていた。
ところが、北海道新幹線の在来線との接続が無人駅の渡島大野となり、駅名も新函館北斗に改称されたことは周知の通りである。となると、新幹線接続の優等列車は上下とも全て仁山経由となる。仁山越えの20‰の勾配など、現代のキハには大した支障ではない。かくして、この二つのルートの役割は大きく変わり、仁山経由は旅客、藤城線は貨物線と相成った。しかし、朝昼晩の下りの3本の普通列車が例外として藤城線に残った。新幹線駅を回避する世にも珍しい列車だ。業界筋では、ダイヤ編成上の措置とも、藤城線の免許を失いたくないJR北海道の思惑とも囁かれている。
何はともあれ、仁山経由の大沼発6:22の5880D函館行きと、藤城線の大沼着6:28の5881D森行きの2本の貴重な普通列車が、線路を違えて間髪入れずにこのポイントを通過する。本当に通過時刻が切迫しているので、どちらが先に来るかも判らない。おまけに、この函館側で2線が交差しているので、感覚的に湖岸寄りが仁山経由と勘違いしそうだ。湖岸の線を往く貴重な筋も失いたくない。もちろん前照灯がアクセントになる駒ヶ岳バックの上りも撮りたい。この日、カメラに記録された時刻差は1分だった。二兎を追う者は一兎をも得ずというが、さてこの出来は何兎だろうか。

同日同所 6時24分 仁山経由 5880D 函館行き
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- 2017/09/14(木) 00:00:00|
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日本最長在来線の旅もそろそろ終わりが近づいた
線路は南下を始め、山陽線の待つ幡生を目指す

2017年4月 山陰本線 阿川
ホーム上に629キロポストがある阿川までやってきた。終点の幡生まであと15駅、44.8kmを残すのみとなった。この阿川からは海岸を離れ、特牛、滝部と25‰の小峠を幾つか越えて、長門二見の先で再び海の見える響灘の岸辺に出る。阿川は幡生から延びた国有鉄道小串線の終着駅として1928年に開業した。駅舎は開業時からの木造だが、色々と手が入れられているので古の風情には乏しい。ただ、正面の待合室入口の三角屋根には、この駅舎が出来た頃の面影が感じられる。美禰線が接続したのが2年後、山陰線が全通してその駅となるのは5年後の1933年のことになる。
山陰線にはキハ40系の後継としてキハ120形、121系、126系が導入されているが、長門市-下関間は、唯一今もキハ40系が独壇場の区間だ。小串-下関間はぐっと列車本数が増えるが、やはり全てがキハ40系で運用されている。観光列車の「〇〇のはなし」以外はラッピング車もないので、撮る側としては安心な線区だ。ところが瑞風が走るようになって、ちょっと沿線がざわついている。本来は風景重視ののんびりとしたローカル線なのだが、瑞風が車両特異性の高い専属カメラマンを引き連れて来た。なかなかハードな仕事っぷりなので、運転日には心積りしておいた方がよさそうだ。



山陰線の小串-幡生間は、もともとは長州軽便鉄道、後の長州鉄道という民間会社により敷設された。下関から現長門市までの免許を得ていたが、資金不足で小串までとなってしまった。国有化され小串線と改称され、阿川まで延伸されたところで、東から美禰線が伸びてくるのを待つことになった。長州鉄道に残された幡生-東下関間は電化されたが、関連会社ともいえる山陽電気軌道に譲渡され、同社の幡生線となった。下関市街を巡る路面電車として半世紀近く活躍したが、1971年に廃止され、同社はサンデン交通というカタカナ名のバス会社となって現在に至っている。生き残りのために、ANAの空港業務も受託している。一世紀程前に、多くの鉄道が民間の英知によって建設され、その路線を繋ぎ合わせて国鉄の全国鉄道網が完成することとなった。再び、JRという民間会社に分配されたわけだが、そんな経緯があることを無碍にしてはならない。もちろん、国有化の流れがなければ、さらに多くの路線が失われていたであろうことは確かなのだが・・・。

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- 2017/09/12(火) 00:00:00|
- 山陰本線
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