山陰海岸に波静かな晴天の朝が来た
紺碧の海色と朱のキハ色のコントラストが美しい

2017年4月 山陰本線 宇田郷
昨年同時期に宇田郷の惣郷川橋梁を訪れた際は、折からの荒天で「
風雲惣郷川橋梁 」となってしまい、風雨に耐える辛い撮影を強いられた。今年は、打って変わって快晴の一日となり「山陰の紺碧の海」をお送りできることとなった。海は天候次第で千変万化する生き物だ。あの鉛色の恐ろしい海原と同じ海だとは思えないような美しく澄んだ光景が広がった。海底が手に取るように見える橋梁下の入り江の浅瀬には、磯船が浮かび、漁が行われていた。ゆっくりと朝の太陽が昇っていくのを海辺で眺めているのは、心安らぐ贅沢な時間だ。以前から、山陰海岸の美しさについては折に触れてお伝えしてきたが、やはり日本で一番美しい海岸だという思いを強くした。
その山陰海岸で一つ大変気掛かりなことがある。海岸に漂着するゴミの多さだ。多くのものには、中国語かハングル語が書かれている。山陰を訪れる度に、ゴミの量が増えているような気がする。この写真でも、波打ち際に沢山のゴミが確認できる。日本国内では、理由はともあれ、神経質なほど川や海に物を流すことに自制的だが、この現実を見れば誰もが空しくなるだろう。地球の自転を考えれば、海流に乗って大量のゴミが日本海沿岸に打ち上げられ、気流に流されて得体の知れないPM2.5が西日本に押し寄せるのは、避けられない自然の摂理だ。このままだと、山陰海岸もゴミで埋め尽くされてしまうかもしれない。ここまでくると、もう領土を守る国防問題だ。
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- 2017/07/30(日) 00:30:00|
- 山陰本線
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雪と氷から解き放された季節を楽しむかのような走りだ
暗闇に丸く浮かんだ旋回窓が短い夏を見つめる

1974年8月 室蘭本線 栗山
栗山、栗丘、栗沢は、室蘭本線の連続する栗の付く3駅だ。何回か訪れたことがあるが、列車本数が多いというだけで、これといった魅力のある場所がある訳でもなく、南の筑豊本線と似たような性格の場所だった。気力のある時は、役目を終えようとしていた夕張山地へと延びる炭鉱路線に足を運んだが、私鉄各線は次々と縮小、廃止されていった。そんな訳で、疲れを癒すために訪れていたような線区だったため、撮影場所の記憶も希薄で、どこがどうなっていたのか殆ど思い出せない。おまけに、下り線の栗山トンネルが崩壊して単線化されてしまい、現在の地図で旧下り線のポイントを特定することも難しくなってしまった。
さて、この場所はどうやら上り線の新栗山トンネルの栗山側の出口ではないかと思う。トンネルの上には国道らしき車道が通っており、道路除雪のためかシェイドがあるのが根拠だが、下り線の栗丘出口は片面がコンクリート法面だったはずなので、消去法といえなくもない。となれば、この左手に下り線の栗山トンネルがあるはずだ。崩落した栗山トンネルは、そのまま放置され、アーチ構造の覆道状で西側が抜けているため、隧道内が明るく徘徊するには好都合で、国道沿いということもあり、廃墟ファンに人気の場所になっているようだ。現役蒸気時代は列車本数が多く、並行する道もあったので、隧道を抜けることはなかった。
その新栗山トンネルを抜けて来たデゴイチは、岩見沢第一の915号機だ。1944年製の木製代用部品を多用した戦時簡易型として出場したが、その後、標準仕様に改装されている。追分の同族とともに国鉄現役蒸気機関車の最晩年まで走り続けた罐のひとつだ。デゴイチは大所帯だったので、人気は今一つ芳しくなかったが、こうして見るとなかなか均整のとれた凛々しい姿をしている。特に北海道形の切り詰めデフの正面は引き締まって見える。ものには美しく見える角度というものがあると思うが、この下から見上げるアングルは、特に格好良く見える。しかしながら、今ではこんなアングルはNGということでご了解のほどを。
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- 2017/07/26(水) 00:30:00|
- 室蘭本線
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鉄道は多くの設備を抱える業態だ
日々運行を陰で支える人々がいる


2017年4月 平成筑豊鉄道 市場
平成筑豊鉄道は、JRから引き継いだ施設と設備を、そっくり使い続けている。その殆どは国鉄時代のものだ。キューロクの石炭列車が直ぐにでも現れそうな眺めだが、やって来るのは単行のちくまる君だ。旧国鉄伊田線のこの区間は、筑豊最大の田川の石炭を直方に昼夜ピストン輸送するための、国鉄時代の複線がそのまま残されている。そのお蔭で、平成筑豊鉄道の上下30分毎というダイヤ編成が可能になっている。旅客列車は、国鉄時代を大きく凌ぐ本数を運行し、積極的な経営が行われてきた。開業当初は黒字経営を誇り、第三セクターの優等生だったが、その後は旅客の減少と貨物の廃止で下降が続く。路線が長いだけに行く末が案じられる。
偶々この踏切を通りかかると、踏切警告灯の交換作業が行われていた。この設備も国鉄時代のものだそうだ。電球式の警告灯をLEDの全方向型に交換するという。電球は寿命が短く、交換作業が手間で、LED化の投資は欠かせないようだ。道路の交通信号機も同様だ。お二人で作業されていたが、写真の方と、もう一人年配の方がおられた。どうやら、年配の方は国鉄OBで、技術の伝承をされているようだ。第三セクターも、保守管理に長けた経験者がいなければ運行はできない。国鉄がJRに移行して、今年でちょうど30年となったが、こうやって今でも国鉄のノウハウは必要とされている。それなら、国鉄でいいじゃないかと思うのだが、それは言うまい。

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- 2017/07/24(月) 00:30:00|
- 伊田線
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列車は球磨川の急流地帯に差し掛かった
風光明媚な川面の車窓が川線の生命線だ

2017年4月 肥薩線 川線
肥薩線は、国鉄再建法の特定地方交通線の選定の際に、「代替輸送道路が未整備」という理由で、廃止を免れている。この理由で除外されたのは、深名線、山田線、岩泉線、名松線、木次線、三江線、予土線、日南線、そして肥薩線の計9路線だった。錚々たる地方線の顔ぶれだが、超ローカル線の深名線、岩泉線は既に廃止。三江線は来春の廃止が決定し、山田線は沿岸区間を三陸鉄道に移管することが予定されている。残る路線は、夫々に観光列車を走らせ、観光客の集客を模索する状況だ。現在も、「えびの高原線」と呼ばれる肥薩線・吉都線は九州の収益ワースト路線だ。その中で、九州新幹線開業を契機に、積極的な観光路線化が試みられている。
かつては、「おおよど」、「えびの」、「九州横断特急」、「くまがわ」などの優等列車が通った路線だが、高速道路の開通で、都市間輸送の役割を失っていった。代わりに登場してきたのが観光列車だ。川線には、今では「かわせみ やませみ」、「いさぶろう・しんぺい」、「SL人吉の」の3種の観光列車が走り、隼人側では「はやとの風」がリレーしている。昼間の列車の半数は観光列車だ。沿線に豊富な観光資源を持ち、鉄道そのものも歴史的遺産。新幹線や空港とのアクセスも良好で、観光路線としての多くの要件を満たしている。これだけの好条件だ。必ず成功してもらわなくては困る。この路線の観光化の成否は、後続のローカル線の行末を占う大きな試金石だ。

これで、「川線の印象」を終わります。
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- 2017/07/20(木) 00:30:00|
- 肥薩線
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「HIGH RAIL 1375」
【ご案内】
このシリーズでは写真だけをご覧いただいております。個々の写真には題名も文書も付けていません。ごゆっくりお楽しみいただければ幸いです。路線は小海線。撮影は2017年夏です。
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- 2017/07/18(火) 00:30:00|
- 小海線
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いつしか北の大地は瑞穂の国になった
どこまでも広い北の米どころをコンテナ貨物が往く

2016年7月 室蘭本線 長和
美味い米の銘柄で、宮城のささにしきと新潟のコシヒカリが競い合っていたのはもう昔話だ。ゆめぴりか、ななつぼし、ふっくりんこ、きたくりん、きらら397、ほしのゆめ、ほしまる。どれも、人気の北海道米の銘柄だ。今や北海道は新潟と一、二位を競う米どころとなった。以前は食味ではコシヒカリには大きく水を開けられていたが、品種改良の結果、特A米のゆめぴりか、ななつぼしが登場し、一気に美味いコメの代表入りを果たした。
北海道の米は産地は、夏の気温が高い西部内陸の空知・上川だ。函館本線の岩見沢辺りから旭川までが一番の米どころだ。一昔前は宗谷本線の名寄までだった北限は、現在は美深まで北上している。ここ胆振の一部でも、太平洋岸ではあるが、やませが入り難い地形を利用して米が作れられている。向こうに太平洋が広がる長和の水田を往く室蘭線の列車も、米どころ北海道の撮影地となった。すぐ隣には、北の湘南を自称する伊達が控えている。
温暖化の影響でコシヒカリの食味は下降気味という。対する北海道の気候は、米作りには良くなるばかりだ。もし、自由にコメが作れる世の中だったら、大規模化が可能な北海道の優位は揺るぎないものになるだろう。何だかんだと、寂しさばかりが伝えられる鉄道界の北海道だが、本来の強みである広大な土地を生かせないのは何とも不幸なことだ。八郎潟でもあの様だが、コメを満載した北の大地のDF貨物が大都市を目指す光景を見たいものだ。
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- 2017/07/16(日) 00:30:00|
- 室蘭本線
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この機関庫に勢揃いした蒸気を想像すると胸が高鳴る
何時の日かキューロクが転車台に乗ることを夢見よう

2017年4月 久大本線 豊後森
旧国鉄の駅には、森町の森駅が三つある。1903年開業の北海道・函館本線の「森」、1929年の大分県・久大本線の「豊後森」、そして1935年の静岡県・旧二俣線の「遠州森」だ。日本の鉄道網の骨格を成す函館本線の茅部郡森町の森駅が断突に古く、続く二つの森駅は頭に国名を頂くことになった。しかし、森という町の由緒から云えば、やはり豊後国の森が筆頭だろう。江戸時代には森藩の統治下にあり、廃藩置県後の僅かな期間だが、森県も存在した。現在は近在の町村と合併して玖珠町を名乗っているが、豊後森駅は旧森町の中心地には変わりない。
その森に機関区が設置されたのは、久大本線が全線開通した1934年のことだ。当初、機関区設置の請願書を提出したのは日田郡町村会だったが、内輪もめの停車場問題を纏めきれず、後から名乗りを上げた玖珠連合が攫ってしまう結果となった。位置的にも、町の大きさからも日田機関区なのだが、そんな失態で油揚げを攫われている。そして、森に12線を有する巨大扇形機関庫が建設され、蒸気機関車全廃翌年の1971年まで機関区は存続した。最盛期の1954年には、25両の配車、217人の職員を擁し、運行本数40本、乗降客5,000人と、玖珠町の資料にある。
国鉄が分割民営化され、残された鉄道用地は次々と売却されていったが、廃止された豊後森機関区跡地は、幸か不幸か、周囲が田圃で接続する道路がなく、売るにも売れない土地として、30年が過ぎ去った。いよいよJRが解体を検討し始めると、ここでも住民運動が起こり、2006年に残存施設と跡地は玖珠町へ売却され、機関庫と転車台は国の近代化産業遺産、有形文化財に登録された。しかし、機関庫と転車台が解体を免れたという段階だ。小さな町に保存の財力は乏しい。何らかの収益に繋がらなければ挫折しかねない。今後の活用法が問われるところだ。


太平洋戦争中には、久大本線の一部のレールが供出され、不通に陥ったこともある。米軍機の機銃掃射に遭い職員3人が死亡するという悲劇も起きている。機関庫の壁にはその時の銃痕が残っている。この機関庫は鉄道遺産であるとともに、戦争の生き証人でもある。


機関庫内に立ち、内部をじっくり観察し、石炭の臭いを感じて蒸気機関車がいた時代を偲びたいところだが、残念ながら荒廃したままの機関庫内には立ち入れない。この窓ガラスの状態は恐ろしい。


2015年に、この機関庫前にキューロクがお目見えした。長崎線や唐津線、田川線で活躍した地元九州の罐だ。福岡は免田町に静態保存されていたものだが、補修の予算が議会を通らず、玖珠町に無償譲渡された。屑鉄同然だったこのキューロクをここまで修復したのは、直方のNPO法人「汽車倶楽部」だ。この倶楽部は只者ではない。蒸気機関車をバラバラにして組み立て直すという全検紛いの作業をやってのける。指揮するのは元国鉄門司機関区検査長というから半端でない。こういう方々に、保存鉄道でもやってもらえば、えらく面白い鉄道となるはずなのだが・・・。

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- 2017/07/12(水) 00:30:00|
- 久大本線
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