冷水は優等列車も越えた本線筋の難所だった
今では鄙びた旧街道の峠の細道だ

1971年7月 筑豊本線 冷水峠

2017年4月 筑豊本線 筑前内野
筑豊本線の難所である冷水峠は、飯塚市にある筑前内野駅と、筑紫野市の筑前山家(やまえ)駅の間にある。分水嶺の3,286mの冷水トンネルまでは、両側とも25‰の連続急勾配が続き、多くの貨物列車が補機を従えていた。江戸時代には、ここを長崎街道が通っており、内野宿と山家宿はその宿場だった。現在の長崎街道は国道200号線だが、峠を冷水トンネルで貫くバイパスの冷水道路が完成してからは、九州の物流動脈の一つになっている。2007年の冷水道路の無料化で、さらに交通量は大きく増したようだ。その一方で、冷水峠を越える筑豊本線の桂川-原田間は、「原田線」と呼ばれ、電化幹線の「福北ゆたか線」のローカル支線のような存在になっており、非電化のまま細々と運行が続けられている。
そんな原田線においても、博多を経由せずに、折尾-原田間を走り抜ける優等列車が存在した時代があった。写真の1971年当時は、急行「天草」と特急「かもめ」が走っていた。「天草」は京都-熊本間の夜行客車列車で、本務機はDD51であったがD60の補機が付いていた。一方、「かもめ」は京都発着のキハ82で、小倉分割併合で、佐世保編成が筑豊本線経由、長崎編成が博多経由で、原田-肥前山口間は2本の「かもめ」が10分程の時間差で運行されていた。石炭で賑わう直方、飯塚にもそれなりの配慮がなされていた。当時の黒一色だった筑豊本線には、鮮やかな特急色の気動車は眩しい存在だった。現在のように、博多に一極集中した運行形態からは、考えられないような時代が在ったということだ。
折尾から冷水峠までの筑豊本線を見てきたが、石炭列車が走っていた頃とは、全く趣の異なる路線になっていた。列車の運行形態は、「若松線」、「福北ゆたか線」、「原田線」の3線に分割され、筑豊本線一体としての使命は既に終わっていた。それは、炭鉱地帯だった筑豊という地域が、様変わりしたからに他ならない。かつての炭都が、石炭に頼らない道を歩んできた結果だ。たまたま、筑豊本線沿いの町々は、博多・福岡、北九州のベットタウンとしての地の利があったために荒廃が避けられた。筑豊炭田は規模は大きかったが、良質炭の枯渇が早かったために、500程あった炭鉱の全てが1975年までにその姿を消している。当時は、日本の高度成長期の末期で、色々な意味で、日本全体も節目を迎えていた。


冷水峠を登る単行のヨンマル
原田線の途中駅である、上穂波、筑前内野、筑前山家の3駅は、何れも棒線化され、列車交換は出来なくなっている。かつて、ここでC55の客レやD60重連の貨物、キハ82の「かもめ」などが交換していた。原田線とは呼ばれるようになったが、本線の一部であることに変わりはない。災害時などの緊急使用に備えて、交換設備くらいは残しておいた方がいいように思うが、それも叶わないのが、今の鉄道の苦しいところだ。内野、山家の2番線には、原田線が本線筋だった頃の賑わいが偲ばれる。

筑前内野

筑前山家

桜の内野宿 正面奥が内野駅
これで「筑豊本線を歩く」を終わります。
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- 2017/06/30(金) 00:30:00|
- 筑豊本線
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乗客の人影が見えない気動車が静々と現れた
僅かな距離の移動が日課となって久しい

2017年4月 南阿蘇鉄道高森線
関東甲信越地方も、ここ数日は梅雨らしい空模様になった。この「梅雨」の語源については諸説紛々だ。この二文字だけなら「つゆ」と言うところだが、梅雨前線となると「ばいう」だ。二つの読み方が、平行線を辿っているのも、複雑な語源説の表れだ。さて、今回の写真に降る雨は「桜雨」だ。こちらは、読んで字のごとくで、何も考えることはない。本当に美しい日本語だ。ただただ、「さくらあめ」に思いを馳せればいい。その桜雨に濡れながら走る気動車は、乗客を運ぶためではなく、主に、施設と車両、そして職員のモチベーションを維持するために走っている。支援を決めたのならば、早く策を纏めて救ってやって欲しい。そうしないと、今が盛りの「黴雨」の季節にカビてしまうかもしれない。
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- 2017/06/28(水) 00:30:00|
- 高森線
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変則三重連が登った築堤は、春の新緑に包まれていた
そこには、炭鉱時代から抜け出た、新たな風景があった

1973年8月 田川線 油須原

2017年4月 平成筑豊鉄道 赤
油須原駅をアップしておいて、あの赤峠の築堤を登場させないわけにはいくまい。当時、撮影スポットへは油須原からとぼとぼと歩いて行ったものだが、現在は油須原と勾金の間に、赤、内田、柿下温泉口の3駅ができている。赤を降りれば、そこはもう築堤の端だ。その赤の駅前には国鉄油須原線の未成線跡を利用した道路が走っているが、路上にはナローのレールが敷かれ、赤村トロッコ油須原線が月に1回程度運行されている。早いもので、このトロッコも生誕14年となったそうだ。
44年前にキューロクの変則三重連を撮りに行った時は、背景に聳える筈の香春岳は、生憎の視界不良だったが、今回はすっきりと晴れ渡り、その全貌を眺められた。石灰石の採掘が続く香春岳は日々姿を変えているので、新旧が比較できず残念だ。一の岳は既に掘り尽くされ上部が無くなってしまった。次は二の岳に取り掛かるようだ。田川、香春岳とくれば、五木寛之の『青春の門』だが、23年間の連載中断から目覚めて、今年1月に「第九部 漂流編」と銘打って連載が再開されている。
44年前は、周囲には木々はなく、如何にも炭田地帯を往く石炭列車という感じだった。それが、今ではご覧通りだ。何処にも炭鉱として栄えていた頃の雰囲気を伝えるものはなく、どう見ても、新緑の木々が綺麗な山間に、単行のキハが似合う場所だ。現在の写真だけをアップしていたら、あの油須原の築堤だとは気付かれない方も多いのではないだろうか。かつての撮影スポットを訪れると、障害物が増えてどうにもならないというのが通例だが、この場所に関してはなかなかの眺めだった。
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- 2017/06/26(月) 00:30:00|
- 田川線
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この鉄路と駅舎は九州にいち早く造られたものだ
広い構内からは石炭時代の栄華が伝わってくる

1973年8月 田川線 油須原
この駅名の「油須原」は、「ゆすばる」と読む。国鉄田川線の現役蒸気機関車の時代には、崎山、油須原、勾金といえば、知らないファンはいないほど有名な撮影地だった。勾配区間であったため、2両、3両のキューロクで石炭列車を押し上げていた。さて、九州の鉄道の歴史は、私設の九州鉄道による1889年の博多-千歳川間の開業に始まる。その頃、筑豊田川の石炭の運び出しのために、民間の豊州鉄道が設立され、行橋-伊田間が開通したのは1895年のことだ。つまり、この油須原駅が開業したのは、122年も前ということになる。
ウェブで「九州最古の駅舎」を検索してみると、嘉例川と大隅横川の駅名がドサッと出てくる。中には門司港の名も散見されるが、こちらは言語道断だろう。この肥薩線の両駅が開業したのは、114年前の1903年で、逓信省鉄道作業局の手によるものだ。この2駅は、一貫して国の管理下にあったため、その由緒はかなり克明に記録保管されている。現存する木造駅舎が、初代のものであることもはっきりしている。そのため、国の登録有形文化財の指定を受け、地元ボランティアと行政によって、町のお宝として大切に扱われるに至っている。
一方、油須原だが、残念ながら駅舎の由緒が定かでない。豊州鉄道、九州鉄道、官営鉄道、国鉄、JR九州、平成筑豊鉄道と、駅舎の大家は既に6代目だ。122年前に民間が設置した駅舎の記録など残っている筈もない。ただ、誰がどうやって調べたのか、建替えの記録もないという。限りなく九州最古の駅舎である可能性が高いが、ただの古い木造駅舎の地位に甘んじている。近くに住んでいれば、初代駅舎であることの証明に乗り出したいところだ。肥薩線には十分に遺産があるのだから、一つくらいへいちくに譲ってやって欲しいものだ。
【追記】
まこべえさん が、国鉄時代である1974年当時の油須原駅舎の写真をアップしてくれました。
どうやら、この駅舎は、近年改装・改築が為されてしまったようです。目的は種々推察されますが、何れにしても、旧駅舎のオリジナリティが、大きく破壊されてしまったことは事実です。本来であれば、文化財としての取り扱いが求められるところですが、残念ながら、安直な改装がなされてしまい、その歴史的・文化的価値が失われてしまいました。構造材は残されているようなので、復元という手もありますが、それでも、覆水盆に返らずです。日本はスクラップ&ビルドのお国柄ですから、古いものへの関心にやや欠けるところがあります。一方で、現在人気のある観光地の多くは、地域の努力によって古いものが大切に守られてきた場所です。古い建造物はそれだけで公共財ですから、これからは、地域で監視し合い、守っていくという気概も必要かと思います。「九州で最も古い骨格をもつかもしれない なんちゃって駅舎」では、何とも哀れです。

2017年4月 平成筑豊鉄道 油須原




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- 2017/06/24(土) 00:30:00|
- 田川線
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徐々に色合いを変化させながら暮れてゆく一日
千変万化の夕暮れの空模様とは一期一会の出会いだ

2017年5月 只見線
昼間の喧騒は新緑号とともに去って行った。いつもの静けさに戻った大志集落が夕暮れ時を迎えようとしていた頃、川風が止まった。只見川は磨き抜かれた鏡のように紅の空を映し出した。日中の新緑号が罐を愛でる時間なら、この暮れなずむ川面のキハは写真を創作する時間だ。その両方を楽しむのがこあらま流だ。川辺を往くキハは、まもなく終点の川口で折返しとなる。さて、その時、天空はどんな表情を見せてくれるだろうか。
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- 2017/06/22(木) 00:30:00|
- 只見線・会津口
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日本最南端の富士は、晴天の青空に聳えていた
裾野では、日々の人の営みが忙しく繰り返されている

2017年4月 指宿枕崎線
山岳写真では、雲一つない晴天は決して良いものとはされない。風雲渦巻くなかに見せるほんの一瞬の光芒を捉えるのが山岳写真の妙味であり、迫力ある山岳風景の醍醐味だ。鉄道写真にも、そんな山の神々しさを写し込めればいいのだが、それは欲張り過ぎというものだろう。すっきりと晴れ渡ってくれたことに、素直に感謝しなければなるまい。
さすがは南国の薩摩地方だ。ソラマメなどの収穫のピークを迎え、農家は早朝からの作業で忙しい。あちこちから刈払機のエンジン音も聞こえてくる。開聞岳の裾野は広大な畑作地帯のため、どこからでも聳え立つ開聞を眺めることが出来る。名山というのは、しっかりとその土地に根付いてこそのものだ。白い軽トラに九州のヨンマルが良く似合う。
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- 2017/06/20(火) 00:30:00|
- 指宿枕崎線
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住民とともに時を紡いできた駅は、秘境駅になっていた
無人地帯となった駅に咲く桜は、どこか物哀しい

2017年4月 肥薩線 真幸
山線の駅巡りも大畑、矢岳とお送りして、最後の真幸となった。大畑と矢岳は熊本県、真幸の次の吉松は鹿児島県に在する。そして、今回の真幸はというと肥薩線唯一の宮崎県となる。この矢岳越えの山中にある真幸は、宮崎県に最初に出来た駅だ。鹿児島本線として山線が開通したのは1909年のことだ。開通に合わせて大畑、矢岳の両駅は開業しているが、真幸は2年遅れとなっている。現在の日豊線、吉都線を辿る宮崎回りの鹿児島ルートが開通するまでには、さらに10余年の歳月を要した。ということで、真幸の駅舎は宮崎県最古の駅舎でもある。

1971年7月
まず、1971年の真幸から見ていこう。真幸の駅はスイッチバックの中にあり、如何なる列車も通過することの出来ない構造になっている。駅の後方の盛土が本線で、右手が人吉方面になり、左手に折り返しの施設がある。駅の周りには民家が点在していた。駅舎横の便所脇にはステテコらしきものが干されている。なんとも長閑な眺めだ。翌年の土石流災害で住民の全てが移転してしまい、真幸の周辺は無人地帯と化してしまった。この時の写真は山線のデゴイチとともに、真幸集落の最後の記録となってしまった。
写真は2本の列車が交換のため同時に真幸に進入するシーンだ。手前の客レは吉松から人吉に向かう上り列車となる。客車はダブルルーフを含む3両で補機は付いていない。列車の停止位置はさらに右手で、ゆっくりと右に進行している。この列車の出発シーンを撮るためのこの場所に陣取っていた。当時の山線では普通列車は混合列車が主体だったが、その合間を埋めるように一部客レもあった。朝には1121レのような門司港発都城行の夜行普通客車列車も乗り入れていた。気動車といえば急行「えびの」と「やたけ」が結構頻繁に走っていた。
次に、客レの向こうの貨物列車だが、人吉から吉松に向っている。後ろの本線を一旦通過して、逆向で駅に進入し、同じく右方向に動いている。停止位置はまだまだ右の奥で、ホームの先の方まで下がると、やっと編成全体が所定の位置に収まる。写真右手にもう1両蒸気機関車があるが、鹿児島で廃車となったC6028で、解体待ちなのか、暫く留置線に放置されていた。こうしてみるとベースのC59はD51よりかなり大柄だ。

1971年7月
吉松行の混845の出発シーンだ。引き出しのためにちょっと力が入っているが、直ぐに絶気となって25‰を下って行った。右奥はキハ58/55混成の上りの802D 急行「やたけ」だが、運転停止ではなく、れっきとした停車駅だった。キハ82の特急「おおよど」が登場するのは74年のことだ。

2017年4月


さて、現在の真幸駅に移ろう。1972年の土石流災害では構内が土砂に埋もれてしまったが、不幸中の幸い、駅の施設は流失を免れた。駅舎は開業当時のものが、今もそのまま残っている。ただ、周囲に集落のあった1971年に比べて、あまりにも人気のない駅になってしまった。秘境駅などと呼ばれるようになってしまったが、かつての様子を知る者にとっては、その変貌ぶりには驚かされる。特急「しんぺい」の後方に見えるのは、災害後に設けられた土石流対策の堰堤だ。昔、駅を見渡せた山の中腹の撮影スポットは、樹木に覆われて場所すらわからなくなっていた。住民が居なくなってから植えられたものと思われる桜の木がこんなに大きくなっている。住民が去ってからというもの駅の乗降客は殆どいない。今は、観光列車「いさぶろう しんぺい」の観光スポットというのが大きな役目だ。満開の桜は人の来ない駅舎の脇で、そっと散ろうとしていた。



現在の定期列車は、普通列車が単車、観光列車の特急「いさぶろう しんぺい」が2両編成となっている。奥の深いスイッチバックを持て余し気味だ。「ななつ星」の停止位置の標識もあるが、7両編成であっても余裕で折り返せる。かつて、長編成の列車が身をくねらせるようにして越えていったスイッチバックのレールには薄らと赤錆が浮いていた。

長い混合列車の最後尾に付く、峠のシェルパの後ろ姿には、復活蒸気の観光列車では味わえない、輸送力の一翼を担っていた現役時代の風格と迫力が感じられる。過ぎ去った時代は、決して戻っては来ない。
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- 2017/06/18(日) 00:30:00|
- 肥薩線
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【ご案内】小海線の2017年版の「天空の時間 空に一番近い列車」をお送りします。今回は連載ではなく、バラバラにアップしていきます。何番まで行くかは撮り終えるまで分かりません。撮影は6月から9月頃までとします。この記事が小海線の100本目となりますので、特にラッキーな一枚を選んでみました。例によって、このシリーズに関しては写真のみの掲載と致します。
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- 2017/06/16(金) 00:30:00|
- 小海線
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激しい雨の中、特急「かわせみ やませみ」が到着した
かつての賑わいが漂う坂本駅も、いまや無人駅だ

2017年4月 肥薩線 坂本
梅雨入りしたが、あまり雨が降らない。梅雨前線は南に遠く離れ、列島になかなか北上してこない。以前は梅雨時の雨はしとしと降るものだったが、温暖化の影響なのか、空梅雨のような顔をしていて、末期に集中豪雨というのが近頃の降り方だ。今年も、雨の季節だというのに、水不足で我が家の野菜の生育は遅れ気味だ。気象庁のホームページの季節現象の説明には、空梅雨は「梅雨期間に雨の日が非常に少なく、降水量も少ない場合をいう。」とあり、梅雨とは「晩春から夏にかけて雨や曇りの日が多く現れる現象、またはその期間。」とある。つまり、梅雨入り早々から空梅雨ということはおかしく、まだ梅雨ではないということだろうか。
一転、桜の時期の九州では、よく雨が降った。それも大降りだ。川線の旅の初日は、土砂降りの一日となり、球磨川沿いの集落は雨に煙っていた。八代から人吉へと向かったが、朝方は特に雨が酷く、八代から一つ目の段と二つ目の坂本では、我慢の駅撮りとなった。乗客の少ない肥薩線ではあるが、そこは九州、両駅の周りにはかなりの民家数の集落がある。特に坂本は西日本製紙坂本工場の通勤客と貨物輸送で栄えた駅だ。かつては写真の中に少なくとももう2線は存在していたはずだ。立派な駅舎は往時の賑わいを今に伝えている。雨の中「かわせみ やませみ」がホームに入ってきたが、特急列車の停車駅ですら無人駅という時代になってしまった。

2017年4月 肥薩線 段
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- 2017/06/14(水) 00:30:00|
- 肥薩線
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筑豊が炭鉱で栄えていた頃、直方は蒸気の煙で煤けていた
よくある近郊線の駅となった今では、石炭の匂いは何処にもない

1971年7月 筑豊本線 直方
かつて筑豊が石炭で繁栄していた頃、直方は筑豊本線の要だった。筑豊三都と呼ばれる飯塚、田川、直方の石炭は、まず石炭列車により直方に集められていた。筑豊最大の炭都であった田川からの輸送を担う伊田線も全線複線で、ピストン輸送がなされていた。直方で列車編成が組み直され、若松や北九州の各地へと供給されていった。そのため直方には広いヤードと機関区が設置され、昼夜を問わず列車の往来と入換作業が繰り返されていた。直方機関区には、常に多くの蒸気機関車が屯して出番を待っていた。その煤煙で直方の町は煤けているような印象すらあった。
一枚目の写真は、直方が蒸気機関車による石炭輸送を行っていた時代のものだ。蒸気列車の多さに、こんな余裕の写真も撮っている。これが蒸気機関車ブームの頃の撮影風景だ。飯塚方面から直方に進入してきたC57の客レだが、この170号機は東北一筋の罐だった。当時は車検切れの車から廃車という時代になり、地域性などお構いなしに車検が残っているものを全国的に使いまわしていた。九州らしくない罐もこうして筑豊を走っていた。背景には、右手に機関区の扇形機関庫と寺、左手にアーチ状の道路橋が見える。左の塔は、終日続く入換作業のための照明装置だ。
さて、直方の現在はと言えば、「福北ゆたか線」を運行する筑豊篠栗鉄道事業部とその運輸センターが置かれている。列車表示の電光掲示板からは、頻繁に列車が発着していることが分かる。車両数から見て、博多方面の方が乗客が多いようだ。直方機関区は直方運輸センターとなり、福北ゆたか線の電車と原田線の気動車が所属する。隅っこの平成筑豊鉄道の直方駅の後ろには、あの黒田藩士一族の菩提寺である雲心寺が変わらずあり、アーチ道路橋も残っているが、何所から見ても、直方には炭鉱時代の面影はない。町というものは、時代に翻弄される生き物ということだ。

直方駅前には、直方出身力士の魁皇、現浅香山親方の像が出現

列車の電光掲示板には「福北ゆたか線」の表示のみで、「筑豊本線」の名は何所にも見当たらない

直方運輸センター 今では職員はマイカー通勤だ かつてはこの辺りに扇形機関庫があった

福北ゆたか線の電車と原田線の気動車 もう煤煙に煤けていた時代は感じられない

平成筑豊鉄道のホーム 雲心寺とアーチ型の道路橋は昔のままだ
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- 2017/06/12(月) 00:30:00|
- 筑豊本線
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