機関区に戻った罐は、かま替え、給水、給炭と、次の仕業に備える
表舞台の乗務員の陰で、裏方の地道な作業が黙々と続けられる

1973年3月 日高本線 静内
二つ目の罐といえば、北海道は岩内・胆振線の倶知安のキューロクの露出度が高いが、日高本線のC11なんていうのもあった。そのC11の塒はここ静内にあった。単独の機関区だった時代もあったようだが、この画の時は、正確には苫小牧機関区静内支区で、罐の所属名板も「苫」だった。ただ、趣は完全に機関区で、蒸気運行に必要な設備の一式を有していた。区の入り口には静内機関区と書かれた表札が掛かっていた。不見識にも、このC11は後方も二つ目であったことを、この画をアップするまで気付いていなかった。
この画の中には、かま替えで落とされたアッシュピットの炭殻を排出する人と、機関車上で給水をする人が見て取れる。小生は、こういった裏方で働く人の作業を眺めているのが好きだ。保線なんかも見ていて飽きない。列車が走るというのは、裏方の車両や施設の整備の結果であって、その影の作業にこそ、鉄道という事業の真髄が見えてくるというものだ。
近頃は、遊園地などより、工場見学のような社会見学の方が人気のようだ。昨年暮れに「JAL工場見学~SKY MUSEUM~」に行ってきたが、事前に予約を取るのがなかなか難しかった。鉄道の車両基地の一般公開も狭き門だし、食品製造業の工場見学も大人気だ。皆さん思っていることは一緒のようだ。レジャーも本物志向になってきたということだろう。その昔、ほぼ自由に機関区内を徘徊できたのは、今のような時代になってみれば、とても幸せなことだった。
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- 2016/02/28(日) 01:00:07|
- 日高本線
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汽笛が聞こえ出すと、妹を抱えたお姉ちゃんがホームに現れた
後ろにカメラがあるのに気付き少し後ずさったが、煙が見えだすともう夢中だ

2014年11月 真岡鐡道 寺内
以前、ここ寺内の踏切や茂木の道の駅で見掛けた、蒸気列車を見送る親子連れを記事にしたことがあるが、どういうわけか真岡鐡道では親子の汽車見物客によく出くわす。それだけ、ここの蒸気は地域に定着しているという事だろう。決まって近所から孫の手を引いて現れるおばあちゃんがいる駅などもあって、手持ちのカメラは片時も手放せない。
この時は、寺内の木造駅舎を絡めて狙っていたが、駅舎の前に家族連れでも現れたらと、長玉も1台用意していた。寺内の駅は、汽車見物にはいい駅で、駅前には広い駐車スペースがあり、SL列車も停車する。駅舎も周囲の景色もまずまず風情がある。これまでも、何回も家族連れが見物に来るのを見掛けていたので、期待していなかったと言えば嘘になる。
ただ、通常運転時には、この画の朝の光線状態では撮れない。この列車は何時もならDE10に引かれてくる送り込みだ。この時はC12を下館に展示するための蒸気のプッシュプル運転だった。列車の後ろには今日の牽引機のC11がぶら下がっている。こんなアングルでPPを狙うのはどうかと思うが、思わぬお客様にちょっといい思いをさせてもらった。それにしても、面倒見のいいお姉ちゃんだ。
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- 2016/02/26(金) 01:15:10|
- 真岡鐡道
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元祖ハイブリッド車が導入されて9年近くになった
今や小海線の顔となった「こうみ」が、今日も静かに山から下りてきた

2016年1月 小海線
この世界初のハイブリッド車のキハE200形が小海線に導入されたのは2007年7月のことだ。小海線に導入された理由は、上りっぱなし、下りっぱなしの勾配区間が長く続くということで、その方がハイブリッドシステムの効率が高いということらしい。確かに最高地点に向かって甲斐側からも佐久側からも延々と続く登り坂で、その間に降り勾配は見当たらない。それと、観光路線でエコというイメージを最大限にアピールできる場所柄ということだ。
ディーゼル発電機の電力でモータを駆動して走るというシステムは、電気式ディーゼル機関車のDF50やDF200と同じだが、さらに蓄電池を搭載することでハイブリッド化している。車体屋根上の空調機に並んでいるのがリチウムイオン電池だ。山から降る区間では完全にエンジンを止めて、回生ブレーキで蓄電しながら下って来るので、音だけ聞いていればキハというよりは電車のEだ。そんな合わせ技の形式名が付いているが、その後の「リゾートビュー」のHB-E300からは、寂しいことに長年親しんだ「キ」という形式名はHBというアルファベットになってしまった。
写真屋としては、キハ110系だけだったところに、毛色の違う車両が加わったのは嬉しいことだ。そう派手ではない青が基調のボディカラーも嫌いではない。同じスジに固定使用されているので、予めその形式に似合うアングルで待ち構えられるのもいい。この日も、エンジン音もなく、佐久へと続く雪の細道を、滑るように下って行った。
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- 2016/02/24(水) 00:58:04|
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国鉄キハの系譜は、昭和の狭幅、バス窓のキハ10系に始まった
ここ八高線でも、キハ17がD51重連とともに武蔵野の丘陵地帯を走っていた

1970年2月 八高線 金子 キハ17の3連
今の時代にこんなものが走っていたら、折からの鉄道ブームもあって大騒ぎになっていることだろう。現在に続く気動車の系譜は、このキハ10系から始まった。総括制御か可能になったことと、貫通式運転台で編成が自在であることは、その後のキハに連綿と受け継がれた。そのため、現代の新型車が登場するまで、特急用の車両を除けば、どの形式であっても編成を組むことが出来た。10系、20系、35系、58系などが一堂に会する編成も組成できた。日本中を凸凹編成が当たり前のように走り回っていた。
このキハ10系は小生と同じころに生まれた車両で、生きていれば還暦といったところだ。狭幅なバス窓の車体はいかにも昭和的な容姿だ。車内中央の壁面には排気ダクトの大きなでっぱりがあり、窮屈な座席の背ずりは、反対側の人の動きが分かるほどの華奢なものだった。ドアには大きな段差のステップがあり、バリアフリーなどとは程遠いものだ。確か車内灯は白熱灯だったような気がする。当時、撮影の移動の足として散々乗っていたこともあり、その愛らしい顔つきも相まって、小生にとっては蒸気ともども忘れられない懐かしい車両だ。
二枚目の画だが、ちょっと雰囲気が平常でないことにお気づきだろうか。高崎方面から来たキハ20を先頭にした3連だが、窓が開け放たれ、手を振る人も何人か見える。そう、この日は高崎鉄道管理局のさよなら運転の日だ。この上りのキハの後、DE10の貨物が下り、その後にD51とC58の重連の客レがこの築堤を登って来る。待ち受けるカメラマンに向けて手を振っているのだ。このキハも何処かで記念列車を追い抜いてきたのかもしれない。さよなら列車は後日ご覧頂こうと思うが、今回は懐かしの凸凹キハの編成美(?)をご堪能あれ。

1970年9月 八高線 折原―竹沢 キハ20+キハ17の3連
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- 2016/02/22(月) 01:49:53|
- 八高線
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その小さな集落の祠からは、小海線の踏切と富士山が見える
穏やかな大晦日の夕暮れ時、故郷に向かう乗客を乗せた列車が過ぎて往く

2012年12月 小海線
小海線とツーショットとなる山は、南アルプスと八ヶ岳があまりにも有名だが、かの富士山だって見える場所がある。ここには富士見坂と呼ばれる富士山展望の名所がある。天気が良ければ夕刻にはカメラマンの姿が絶えない。この地の人々は富士山の眺めをこよなく愛している。家を建てる時は、なるべく居間から富士山を拝めるようにする。南アや八が絶景の場所にも拘わらず、富士の人気は絶大だ。
そんな富士山好きの集落をキハが小気味よく駆け抜けて行く。正月を迎えるために、集落を守る祠には真新しい紙垂が付けられた。カメラは水平をとってあるが、線路は一見して傾きが分かるような急勾配だ。この路をかつてはC56が喘ぎながら登っていた。その雄姿は、集落の人々の記憶の中に今も生き続けている。
年の瀬の車窓からは、故郷で正月を迎えようという帰省の人や、高原のホテルで束の間の休日を過ごそうという観光の人の、仄々とする様子が伝わってくる。目的はともあれ、この地で年越しをしようという乗客で満席だ。帰省の方は、車で高速を飛ばしてくるよりも、さぞかし懐かしい思いに浸られていることだろう。故郷の玄関は、高速のインターではなく、やはり駅舎であってほしい。富士山の夕景が美しい、穏やかな大晦日だった。
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- 2016/02/20(土) 01:00:02|
- 小海線
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今では写真撮影においてはあまり車両に拘りはないが、鉄道写真をやっている以上、車両に興味がない訳ではない。車両への思いは、写真ではなく模型で満たしている。先日、小生のコレクションに加わったKATOのNゲージのC59の姿があまりにも精悍そのものだったので、写真ブログではあるが図らずも記事にしてしまった。

先日、東京大井町のIMON本店の近くを通りかかり、思わず店に吸い込まれてしまった。KATOから新規発売されたC59が見たかったからだ。小生の鉄道模型趣味は、好きな車両を買ってきて並べておくといった程度のものだ。鑑賞が主体なので16番やHOがいいサイズなのだが、精巧な作りを誇る天賞堂やIMONは、あまりにも高価で手が出せない。そこでお手軽なNゲージということにもなるが、そもそも走行を目的としたものなので、鑑賞用には小さ過ぎるし、かつては鑑賞に堪えられる程のものではなかった。
ところが、このところのKATOの蒸気の精度には目を見張るものがある。前回新規発売となったC12を手に入れているので、今回のC59はスキップの予定だったが、現物を見てしまうとなかなか思い留まれない。場所もとらないので入線には支障はない。C59といえば、軸重軽減のためハドソン化されたC60ともども早くに姿を消しているが、我が国の旅客用蒸気機関車の一つの完成形だ。その洗練された姿には、ただただ見入るばかりだ。
写真はケースから出したままを撮ったもので、何も手を加えていない。一昔前のNゲージでは味わうことのできない素晴らしい臨場感だ。このプラスチックの成形技術はたいしたものだ。だが、やはり細かい作りを堪能するには小さ過ぎる。ナンバープレートを付け、テンダーのカプラ―くらいは交換してから写せとのお叱りを受けそうだが、目の調子があまり良くないのでご勘弁を。おまけにロッドの位置もよくない。ご丁寧に、「あき」のヘッドマークが付いているが、残念ながらナンバープレート無しではさすがに正面は写せない。編成美も楽しめるレイアウトの一つぐらい作りたいのだが、撮影の方で手一杯で、全く手付かずだ。

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- 2016/02/18(木) 01:19:10|
- 鉄道模型
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高みから見下ろすのが俯瞰の相場だが、ここでは水平俯瞰が拝めた
オホーツクの原野の遥か彼方の地平線からキューロクの白煙が見えてくる

1973年3月 興浜北線 浜頓別
国鉄の赤字ローカル線の廃止は、国鉄再建法に則り、1981年に指定された第1次廃止対象特定地方交通線から始まった。その後、第2次、第3次と続き、1990年に一通りの廃止を終えた。この興浜北線は真っ先に1次指定された路線で、呆気なく1985年に廃線となっている。こんな広漠とした原野を走る盲腸線だ。残せといっても、それは限りなく難しい話だ。
以前、某公共放送局で「JR最長片道切符」と「JR乗りつぶし」と題した番組があったが、ローカル線廃止前だったら、鉄道旅好きとは思えない関口知宏氏は旅に飽きてリタイヤしていたことだろう。そういえば、彼が車内で寝ているシーンが度々あったが、鉄道旅好きは余程のことがない限り、車窓を楽しむことに余念がないものだ。
現役蒸気の時代は、ローカル線が淘汰される前で、北海道には多くのローカル線が存在していた。手荷物や一般貨物の取扱も健在で、小さな町にキューロクが不定期で通っていた。どの線に何時入線するかが、道内放浪者の誰しもが知りたいところだったが、同業者同士の情報交換は盛んで、皆惜しげもなく知る限りの情報を提供していた。不思議と情報は至って正確で、この日も入手した情報に違わず、キューロクの貨物列車がオホーツクの原野に現れた。
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- 2016/02/16(火) 01:09:49|
- 興浜北線
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晩秋の色付いた欅を横目に、C12が足早に通り過ぎていく
根元に鎮座する石仏たちは、居場所が定まらず落ち着かないご様子だ

2014年11月 真岡鐡道 八木岡
また急に異常に暖かくなった。北海道でも雪解けが進んでいるという。このところ冬の雪景色が続いたので、今回は季節を変えて、ちょっと色彩のある画にしてみよう。以前も書いたが、ここ八木岡の欅の樹形は本当に美しい。この時は落葉が近づいた晩秋の姿だ。個体によって黄色くなるものと、赤くなるものがあり、列車の向こうの欅は赤く色付いている。春の新緑、木陰の涼しい夏、秋の紅葉、そして冬枯れ。欅の四季はどれをとっても素晴らしい。
さて、今回注目するのは、その欅の根元にある石仏群だ。この石仏たちは不思議なことによく歩いている。有名撮影地だけあって、多くの作例を目にするが、石仏の位置や方向が一々異なっている。多くは撮影するのに都合の良い並びになっている。この画では転んでいる仏さんが何体かおられるが、もともとどうなっていたのかを調べようと色々な作を見て判った。
小生は石仏や道祖神の写真も撮っているが、動き回る仏さんなど見たことがない。その場所にじっと留まり、月日を重ねることによって、その土地のお守りになっていく。何時だったか、撮影に邪魔な鉄道の設備を壊して捕まった撮り鉄がいたが、仏さんのちょっとした移動なら、お咎めはないだろうと高を括っての所業だろう。確かに石なのだから、そっと動かせば、減るものでも壊れるものでもないだろう。しかし、石仏を勝手に移動すると、祟りがあるというのが日本の伝承だ。その裏には人々の色々な思いが込められている。やはり、日本人なら石仏を撮影のための小道具のように考えるのはやめた方がいい。
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- 2016/02/14(日) 00:56:04|
- 真岡鐡道
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千曲川がつくった急峻なV字谷が雪化粧した
聞こえてくるのは風の音だけ、ひたすらトンネルを見つめて列車を待った

2016年1月 小海線
このところ気温の上がり下がりが激しい。厳しい寒波が居座ったかと思ったら、今週末は4月並の陽気になるというから忙しい。小海線沿線のこの冬の本格的な積雪は、今のところ先月17日の晩の1回だけだ。そろそろ、南面の雪が消えてきたので、今回の雪景色は、一旦終わりになりそうだ。日本海側の積雪は確実に減っているが、太平洋側は南岸低気圧の大雪が降りやすくなるという。一昨年の記録的な大雪は調度今頃だった。まだまだ気は抜けない。
膝くらいの積雪をかき分けて、この抜け場所に辿り着いたが、途中に人の踏跡は一切なかった。あるのは動物たちの足跡だけだ。どうやら、雪が降ったと喜んで歩き廻っているのは小生ぐらいらしい。気温が低いので、雪面が凍ることもなく、新雪のアスピリンスノーのままで、ワカンが利かない。長い距離ではないので、鈍った身には、このくらいの力任せのラッセルは調度いい運動だ。
現役蒸気を撮っていた頃は、大した備えもなく積雪期の北海道に向かっていた。今考えると無謀というほかなかったが、若さに任せて何とか乗り切って来た。ただ、今はもうそうはいかない。悲しいかな、体力の減退は装備で補うほかない。加齢で血行が落ちているので、防水、防寒には注意したい。
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- 2016/02/12(金) 00:20:09|
- 小海線
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中山道の古い宿場町を巡る中央西線はノスタルジックな路線だった
電化が目前となり、木曽谷に響き渡るデゴイチの汽笛を聞けるのも残り僅かだ

1971年10月 中央西線 上松
中央本線とは東京-名古屋間396.9kmの山岳路線だが、その道の人の間では、塩尻を境に中央東線と中央西線と呼び習わされてきた。今も昔も、東線は関東、西線は関西・中京の人が利用するというのがイメージだが、東側の小生にとって、西線は島崎藤村の「木曽路はすべて山の中である」で始まる「夜明け前」の舞台となった木曽谷を巡るノスタルジックな路線だった。
中央西線は、1973年に全線電化されるまで、非電化の中津川-塩尻間はD51の天下だった。貨物と普通旅客列車の殆どをD51が引いていたが、この頃、電化工事が佳境を迎えていた。あちこちにコンクリートの架線柱が転がっていた。電化工事というのは、さぞかし手間と時間が掛かる大変な工事と思い込んでいたが、あっという間に架線柱が林立し、D51とキハ181は木曽路から去って行った。
交換の重連回送が到着し、出発に備えて投炭が始まったのか、盛大な黒煙となった。本線貨物は引き出しが正念場だ。ちょっと気になるのが、その傍らでホームに屯する若者たちだ。70年代の出で立ちは、豊かな時代の始まりを予感させる。何気なくとったポーズにも、その時代を思わせるものがあるから面白い。
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- 2016/02/10(水) 00:51:00|
- 中央西線
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