かつての只見線の終点だったこの山中の駅には罐の気配がする
ここで折り返しの入れ替えをするC11の姿が浮かんでくるようだ

2015年10月 只見線 大白川
越後の只見線は、六十里越が開通するまで、日中線と同じように客車のみでの運用が続き、キハの走らない路線だった。その動力は長く蒸気が担ってきたが、1969年に余剰となったDD13とDD15が投入された。当時、蒸気客レ駆逐用として開発された最新型のSG搭載のDE10でなかったため、その後も二冬に渡ってC11が再登板した。運用期間と希少性に注目すれば、DD13牽引の客レの方が珍しいものだった。
大白川には、その往年の蒸気時代の遺構が残っている。錆びだらけになった鉄製の給水塔と、アッシュピットだ。さすがに、転車台は撤去されているが、確かに罐の気配を感じられる場所だ。会津側の蒸気は不動の地位を得ることになったが、小出側はこれといった名所もなく、無煙化も早かったせいもあるが、注目されることのないとても地味な存在だった。
今回は、その大白川駅の遺構をご紹介したい。記録的な要素が強いので、その辺りはご理解の程を。
大木さんのサイトが更新されていますちょっと忙しくしている間に、大木茂さんのサイトが更新され、「寫眞帳」に「肥薩線矢岳越え・大畑」がアップされていました。これは衝撃です。肥薩線山線という、現役蒸気を象徴する絶対的なモチーフもさることながら、「モノクローム」の世界が圧倒的な臨場感をもって迫ってきます。写真を志すものにとっては、いろいろな面で、必見の作品の数々です。次の写真集は「肥薩線山線」と囁かれていますが、その片鱗を垣間見るようです。この過酷かつ興味の尽きない矢岳越えが、大木さんをプロの道へと導いたのかもしれません。
大木さんの「モノクロームの残照」は
こちら から。

駅の只見寄りには、レール仕立ての錆び付いた給水塔がある。繋がれたホースの状態から、どうも蒸気なき後も別目的で使用されていたような形跡がある。給水塔の下には、網が掛けられているが、立派なアッシュピットが残されている。どうやら、給水塔と合わせて、融雪用にでも流用されていたのかもしれない。その先には転車台があったが、こちらは撤去されきれいに埋め立てられている。


小出側にも、整備用ピットをもつアッシュピットらしきものがあるが、こちらも様子が何かおかしい。短い盲腸線だった小さな折り返し駅に、二か所ものアッシュピットがあるはずがない。こちらは、東鉄工業の整備用のピットかもしれない。

保線小屋の傍に、金属廃材の山があった。今や枕木は殆どがコンクリート製だ。犬釘にお目にかかれるのも今のうちかもしれない。刈払機の刃も落ちている。よく見ていくと使い道の分らない部材が結構ある。
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- 2015/11/30(月) 01:53:55|
- 只見線・小出口
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数々の名画を生み出してきた只見川橋梁
その核心部が閉ざされてから、はや5回目の秋を迎えた

2015年10月 只見線 第一只見川橋梁
「秋色只見線」もそろそろ終わりに近づいてきたが、只見線の象徴的な風景である只見川橋梁の眺めが全く登場していない。現在列車が走るのを眺めることが出来るのは第四橋梁までだ。小生もそうだが、その先の橋梁の方がお好みだった方は少なくないと思う。そんなかつての名撮影場所の被災現場を見るのは本当に辛いことだ。
そんな理由から、只見川橋梁を避けてきたわけではない。余計に撮影者が集中するようになったため、あまり近寄りたくないことは確かだが、本当の理由は、なかなか個性的な画を撮るのが難しくなったことだ。既に多くの優れた作品が輩出され、色々な要素が出尽くした感もあるので、難しいこと至極だ。幾つかのアイデアを用意してあったが、試す時間と体力がなかった。
そこで、今回は見慣れた月並みな画ばかりだが、只見線の付き物ということで、通りすがりに撮った橋梁画を並べてみた。次回の撮影行のことにでも思いを馳せていただければ幸いだ。
話は変わるが、会津若松市のホームページには、「只見線の全線復旧に向けて」というページがあり、福島県作成の只見線応援動画「だんだん早くなる」なるものが載っている。今回の記事は、この初音ミクの歌声でも聞きながら、鼻歌交じりにご覧頂ければと思う。ホームページは、
こちら から。


2015年10月 只見線 第三只見川橋梁


2015年10月 只見線 第四只見川橋梁
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- 2015/11/28(土) 01:07:08|
- 只見線・会津口
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最終列車が遠退き、只見線の一日が無事に終わった
山間集落の月夜の晩は、静かに更けて行った

2015年10月 只見線 入広瀬
その日最後の列車が小出からやってきた。たった一人の乗客は、この駅で下車し、灯りの消えた駅舎の横を抜け、破間川の対岸の本村へと去って行った。運転手と車掌だけの、さながら回送のようになった列車は、次の大白川での駐泊となる。列車の二人は、車で帰宅するのか、それとも酒でも酌み交わして一夜を大白川で過ごすのか、興味のあるところだ。
新潟県北魚沼郡入広瀬村。今は魚沼市だが、これが慣れ親しんだこの地の旧行政区分だ。旧駅舎は木造であったが、1988年にこの「雪国観光会館」との合築駅舎となった。2010年には簡易委託取扱も解かれ無人駅となってしまった。館内には「只見線コーナー」なる小さな展示スペースがあるが、駅としての設備は時刻表と椅子以外は殆ど見当たらない。小生の保管ネガの中に旧駅舎があるはずなので、機会をみてご紹介したい。
この夜は月夜だった。月の光に照らされた雲の流れを眺めるのも久しぶりだ。こんな月夜の空の思い出を、皆さん必ずどこかでお持ちの筈だ。そんな記憶を呼び戻してくれるのも、駅舎の灯の撮影であったりする。月の光は意外と明るいもので、目が慣れてくると結構な視界が得られる。山肌に点在する家々の灯りと、月夜の空がノスタルジックな一夜であった。


斜面の雛壇に並ぶ集落の灯りが瞬いている。田圃もきれいに刈り取られた。ここのコメは正真正銘の魚沼産コシヒカリだ。ここが雪に覆われた時のことを想像してほしい。雪国の冬も決して悪いことばかりではない。
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- 2015/11/26(木) 01:37:19|
- 只見線・小出口
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何時見ても飽きることのない只見川と大志集落の眺めだ
川口発車の力走はここまでは続かない 静かな後ろ姿を見送った

2015年10月 只見線 会津川口
誰がこんな場所からの撮影を思いついたのか、世の中には俯瞰の鬼がおられるようだ。ただ、この場所は鉄塔の足元で、おまけに粗末ながら車道まであり、まだまだ序の口だ。鉄塔には必ず点検用の小道が付けられている。線路から見える手頃な鉄塔を探して、アプローチの小道さえ探し出してしまえば着いたようなものだ。
鉄塔がない場合、道なき斜面を行くことになるが、ザイルが要るようなところに登られている方もいる。撮り鉄の遭難や滑落死というのは聞かないが、その執念とパワーは凄いものだ。我が家には、山で使わなくなったザイルやハーケン、アイスピッケルなどもしまってあるが、さすがにもう使う機会はないだろう。
この日は午前中がいい天気だったので、この場所に登ってみたが、無情にも雲に覆われてしまった。本当は天気の良くない時こそ写真屋の腕の見せ所なのだが、日が陰ると何となく気落ちしてしまうのは、何時まで経っても未熟だということだ。
雲の間から差し込んだ光線が、サーチライトのように大志集落を走っていく。こういう時に列車が通過してくれるとありがたいが、そこまでのツキはなかった。こんな場所での後追いは、かなりの好き者だけがやることだ。鉄塔下に流れる時間はどこまでも静かだった。

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- 2015/11/24(火) 01:00:12|
- 只見線・会津口
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お知らせこの記事をご覧になった大木茂さんから、願ったり叶ったりのご提案を頂きました。「43年前の写真が参考にあった方が、ご覧頂いている方に良いのでは」というご厚意です。大木さんのあの名画と、並べてご覧いただけることになりました。43年の年月を挟んだ、「坂下の朝」の今昔をとくとご覧ください。
大木さんの作は、ご提供頂いた画像をそのままアップしています。大木さんは、片隅に小さくなんておっしゃっていますが、そうはいきません。
大木さん、ありがとうございました。大木さんのサイトは
こちらから。
朝8時過ぎ、上り下りの列車がこの駅で交わる
そこには、43年前も今も、同じように列をなして改札口に向かう人々がいた
昭和の「坂下の朝」 1972年9月 大木茂さん撮影

平成の「坂下の朝」 2015年10月 こあらま撮影
以前の記事で、会津坂下の朝のC11の旅客列車の交換と、大木茂さんの素晴らしいその乗客群像画のことを書いた。1枚目の画は、かなり貧弱ではあるが、その大木さんの名画の平成版コピーだ。当初、名画と並べて、一人で密かに楽しもうと思っていた。何回かしげしげと眺めているうちに、アップしようという気になった。他ならぬ大木さんのコピーだし、43年もの時間が流れている。何よりも、この画をご覧になって一番感慨深いのは当の大木さんご本人だろうから、失礼してアップさせていただいた。
43年という年月は、目に見える物を大きく変えてしまった。周辺の風景、鉄道の施設や車両、そして人々のいで立ち。昭和の時代を懐かしく思い、過ぎ去った年月を感じざるを得ない。画の右手にあった引込線や給水塔はきれいに更地になってしまった。
しかし、同時に何も変わっていないという思いも募った。あの時代に大木さんが切り取った情景と、今の時代のコピー画には、姿かたちは変わっても、連綿と続く人の営みがあり、それがこの情景の本質であろう。
つべこべと言い訳を書いてしまったが、本音を言えば、現代のコピー画もなかなかいいもんだと思ってのアップだ。コピー画ではあるがテイストはかなり違う画になったと思う。何故か、踏切を渡る生徒たちから、ビートルズの「アビイ・ロード」のジャケット画を連想してしまう。ただ、寂しいことに、昭和と見比べると、群衆は間違えなく小さくなり、生徒ばかりになってしまった。

まず、上りの若松行きが入線し、山峡の町からの乗客が降りてくる。次に川口行きが若松から街の生徒を乗せてくる。二つの列車の乗客の雰囲気が微妙に異なるのが面白い。43年前と同じように、ここ坂下には二つの高校がある。県立坂下高等学校と県立会津農林高等学校だ。生徒をよく観察すると、制服が二種類あることがお分かりいただけると思う。ブレザータイプが普通科の制服だ。
風太郎さんも今年9月に「坂下の朝」を撮られている。夏服から冬服への衣替えに、季節の移り変わりを眺めるのもまた楽しい。
また何十年かして、次の時代の「坂下の朝」を、何方かに見せていただきたいものだ。

実は、駅構内のある場所から撮りたかったので、試しに申し出てみたが、やはり駅長からはお許しはいただけなかった。昔なら、許可を得ることすら必要のないような場所だったが、やはり駄目だった。特に、蒸気運行日なので、一人でも許してしまえば取り止めがなくなってしまうのは確かだ。まあ、そういう時代になったということだ。
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- 2015/11/21(土) 00:32:31|
- 只見線・会津口
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湖畔のスノーシェッドの中で、静かな眠りについた田子倉駅
雪に閉ざされる前の、一瞬の彩が湖面に映える

2015年10月 只見線 田子倉
田子倉駅は2013年3月に廃駅になってしまった。六十里越トンネルと只見トンネルの間の田子倉湖畔に僅かな開口部があり、スノーシェッド内に田子倉駅が設けられていた。
もう40年近く前になるが、この駅に下車したことがある。当時、東北ワイド周遊券なるものがあり、磐越東西線より北と会津線と只見線の一部が周遊エリアだったと思う。東京からそのエリアへの行き帰りのルートに只見線があった。この只見線ルートは国鉄内でもあまり知られておらず、周遊券の裏の小さな文字の記載を、改札や検札で説明した覚えがある。
そうこうして辿りつた田子倉駅だが、折からの大雨で不通になり、この極めつけの秘境駅に取り残される羽目になった。手持ちの食糧があったので、一晩駅のお世話になることも考えたが、寝るには気味のいい駅ではない。そこで、駅前の国道からヒッチハイクでの脱出となった。止ってくれたのは、東京で電気工事の会社を経営する方で、新潟駅まで乗せてもらった上に、食事もご馳走になり、帰り際に、困ったら訪ねて来いと名刺までくれた。話をしていて、この方が何と元反社会的勢力と判ったのだが、その道に入ることになった切っ掛けや、どうやって娑婆に戻ったかなど、壮絶な話を聞くことができた。その痕跡は体にも残っていた。こんな話が何の役に立つかは分らないが、決して学校では教えてくれない貴重な授業だった。

田子倉駅が廃止されたため、只見-大白川間が一駅区間の20.8kmとなり、JR東日本管内の駅間距離の最長区間となった。東北地方最西端の駅も只見駅に移った。2011年の新潟福島豪雨の災害で只見駅は一時営業休止に追い込まれたが、会津若松側の終着であったはずの駅は、今は小出側の終着駅となって生きながらえている。
ただ、災害の前後で只見線のダイヤは大きく変わってしまった。以前は、会津と越後間で通勤通学も出来なくはなかったが、今はもう無理だ。そんな事情があってか、只見町発案の魚沼市との交流の歴史を模った「縁結び」ラッピング列車が走っている。只見町の頼りは、もう魚沼市しか残っていないようだ。

2015年10月 只見線 只見
この六十里越えの通学は無理だと書いたが、実際には今でも僅かながら通学する生徒がいるようだ。ただし、只見高校の生徒限定で一方通行だ。少し、この六十里越の越境通学について追記しておこう。
只見町には生徒数約120名の県立只見高等学校があるが、ご多聞に漏れず、生徒数の減少には頭を痛めている。そこで、これまたよく聞く話だが、町では山村教育留学制度を設け、奥会津教育センターなる寮を建設し、学区外からの生徒の募集に力を入れている。留学生の寮費や、只見線利用の帰省のための交通費などを、町の財政で補助してくれるという特典が付いている。主に入広瀬からの只見線越境通学者に対しても同様の便宜を払っているようだ。
新潟側からの始発の只見到着は9:15だ。こんな時間では普通は高校生活は営めない。積極的な除雪がないため、冬の運休は1日、2日じゃないので、3年で卒業出来るかも覚束ない。寮や下宿の用意なくしては厳しい。町は生徒の維持と只見線の利用促進を同時に狙っている。
こういった在り様をどうこう言う気はないが、少なくとも普通の高校生の普通の通学とは違うものだ。1日3往復というのは鉄道としての限界ダイヤだが、通勤通学時間帯に列車がないのは、すでに限界を越えており、特殊事情をもった生徒しか利用できなくなっていることは確かだ。
現在只見駅の乗車人員は1日20数人だ。町にしてみれば越境通学の数人の利用も決してしい小さい数字では無いのかもしれない。それだけ、只見町も只見線も追い詰められているという事だ。
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- 2015/11/19(木) 01:44:28|
- 只見線・小出口
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すぐにでも雪がやってきそうな晩秋の風景だ
冬を迎えるだけになった高田の田園に、白煙が戻ってきた

2015年10月 只見線 会津高田
この場所は有名なお立ち台なので、何の説明も要らないだろう。天気が良くないが、それなりのファンが、汽車が来るのを待ち構えていた。狭い場所なので、お隣さんとのご挨拶となった。年恰好は小生と同じくらい。物静かな上品な方だ。車も練馬ナンバーと同郷かもしれない。
話をするうちに現役時代からのファンだと分かった。なんと、こつこつと貯めた北海道行きの軍資金で、「北辺の機関車たち」を買ったという。何と酷な選択肢だろうか。こうなるともう話は尽きない。大木さん、武田安敏氏、堀越さんの作品のことなど、あっと言う間に楽しい時間が過ぎ、汽車の通過時刻となってしまった。
蒸気が去ると、潮が引くように皆さん丘を降りて行った。練馬ナンバーの彼は、その晩は柳津の温泉宿だという。小生はといえば、一人残り、夕刻の勝負の時間帯を迎えた。実は蒸気だけのためにこの場所に登ったわけではない。蒸気の後の2本のキハで、「灯」撮影をするのが、もう一つの大事な目的だ。
1本目はまだ明るさが残りキハの色が識別できる。辺りの路を走り回る車の灯りがホタルのようだ。2本目は真っ暗となった。会津若松の夜景が天候の割にはいい感じだ。ただ、思い描いていた画とは程遠い。本当は、蒼い磐梯山がお題だったのだが、こちらはまたの機会にということになってしまった。
真っ暗な山道を高田の日帰り温泉へと急ぐ。さすがに、鉄道利用の時には宿泊まりになったが、車の時はたいてい車中泊だ。時間も懐具合も気にする必要がない気儘さがいい。次の朝は7時には坂下の駅にいなければならない。

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- 2015/11/17(火) 00:44:59|
- 只見線・会津口
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紅葉に染まる山々の秋色も、一夜にして白銀の世界へと変わる
冬は直ぐそこまで来ている 初雪が来る前に

2015年10月 只見線 大白川

この地域は言わずと知れた日本を代表する豪雪地帯だ。積雪が増える時期に休業になるスキー場まである。リフトまでもが雪に埋もれて動かせなくなるとのことだ。合併前の入広瀬村は豪雪地帯を売りに、都会からの移住者を募っていた。結構な応募者があったとういうから驚きだ。小生も雪が積もるところに一度は住んでみたいと思うが、豪雪地帯となるとそれなりの覚悟が必要だ。
今年も、除雪車の試運転が始まった。この東鉄工業の除雪車は大白川に留置され、主に大白川から六十里越トンネルの入口までを担当している。ロータリーヘッドが峠を向いている。ローカル線の除雪車はこんなにもコンパクトなものになった。ラッセルヘッドを付けたDDも昔話になりつつある。小さい割には高性能らしいが、さすがに豪雪には追い付かないことが多々あるようで、六十里越は除雪のための運休が多いようだ。
2014年2月の山梨の大雪の際には、東鉄工業の同じような車が応援に来たが、あっと言う間に小海線全線を除雪してしまった。1m位の雪で大騒ぎしているのは、越後の方にしてみればお笑い種だろう。

これまで、走行しているのを見たことのないレールの搬送車にもお目にかかった。動力は後ろで、推進しているが、運転しているのはどっちだろう。これには、是非とも乗ってみたいものだ。今や保線も除雪も、実務は関連企業にお任せだ。

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- 2015/11/15(日) 00:24:25|
- 只見線・小出口
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川口発車の汽笛とブラストが渓谷に響く
現役時代を彷彿とさせる旧客蒸気を眺められる至福の時だ

2015年10月 只見線 会津川口-会津中川
あの忌まわしい水害の後、しばらくは只見川の水位が下げられていたが、今は元に戻った。主だった被害の復旧が終わったということだろうか。この地域を象徴する美しい水辺の集落が、再び見られるようになったことは喜ばしいことだが、激しさを増す気象の前には、壊れやすい風景になってしまったのかもしれない。
だが、この水辺の風景は電源開発によって造られた人工の風景ともいえる。もし、川を堰き止めるダムが全てなかったら、この地の風景はどのようなものだったのだろうか。小生が1970年代初めに川口駅を訪れた時には、すでに水辺の駅だった。そもそも、只見線の川口-只見間は田子倉ダム建設のための電源開発の専用鉄道が前身だ。やはり、この地は電源開発抜きには語れない地域柄ということだ。
今年のSL只見紅葉号は客車も見逃せない。画の編成は、C11+オハ二36+オハ47+スハフ32となっている。半荷物車のオハ二36と小窓のスハフ32が目を引く。もう、こうなると現役時代を彷彿とさせるものだ。今風の洒落た客車でないところが、風景と並んで只見線のC11の魅力だろう。
ちなみに、キハの3両編成の最後尾のラッピング車両は、あまりお目にかかりたくないが、只見町に因んだ「ユネスコエコパーク登録記念号」だ。
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- 2015/11/13(金) 00:31:07|
- 只見線・会津口
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折からの冬型の気圧配置で、時雨模様となった一日も暮れようとしている
静かになった川面に、夕暮れの空色とキハのヘッドライトが映し出された

2015年10月 只見線 広神
2004年に魚沼市が誕生するまで、ここは広神村というところだった。さらに遡ると1955年までは、薮神村と広瀬村という二つの村に分かれていた。それが只見線の駅名の由来だ。二つの村名から一文字ずつとって広神村ができた。その住居表示は消えてしまったが、今でもこの一帯は「広神」と呼び習わせれている。平成の大合併で馴染みのない名前の市が数多く生まれ、戸惑うことが多いのは困りものだ。この地は、小生にとっても今でも広神だ。
この地を流れるのが守門岳が源の一級河川の破間川で、「あぶるまがわ」と読む。只見線と国道252号線は小出から大白川までこの破間川に沿って走っている。豪雪地帯の川の特徴で、春先の水量が極端に多くなる。この季節は広い河床には似つかわしくない細い流れだが、融雪期には川幅一杯の急流となる。
只見線は破間川本流を8回渡るが、最下流がこの画の橋梁だ。まだ5時過ぎではあるが、最終の只見行きが、静かな流れの水面にヘッドライトを映しながら橋梁を渡っていった。この車両が折り返して最終の小出行きとなる。さらにもう一度折り返して8時過ぎの大白川泊まりの最終列車となって、只見線の一日が終わる。
車両は2両編成で車掌が乗務しており、単車のワンマンなら倍密度の運転ができそうなものだが、ワンマン運転するか否かの基準がよく解らない。小海線では、1992年のキハ110の導入時から、既に20年以上ワンマン運転がなされているが、同じキハ110の飯山線では今でも車掌乗務だ。
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- 2015/11/11(水) 01:16:57|
- 只見線・小出口
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