現役時代のポイント探しは、自分の2本の足が頼りだった
トンネルを抜け、橋梁を渡って辿り着いた所は、身動きが取れないどん詰まりだった。

1972年7月 只見線 会津檜原-会津西方
いよいよ只見線のC11紅葉号の本運転の前日となった。そこで、何の参考にもならない只見線の現役時代の一枚をお送りしたい。
C11の背景にあるのは、かの只見川第一橋梁だ。この時代の撮影ポイント探しは、線路をひたすら歩くことから始まった。会津檜原からトンネルを抜け、橋梁に辿りついたが、サイドに移動する道が見つからない。列車までの時間が迫り、苦し紛れに、橋梁を渡り会津西方側のトンネルの上に攀じ登った。こんなアングルの画はこれまで見たことはない。すっきりした正面撮りが好みの方には、いいアングルだが、線路を歩けなくなった今、何所からアプローチできるかは知る由もない。その後、国道に移動して撮り直しているが、情報が少なかった時代、撮影場所の開拓にはそれなりの苦労があった。
今では、ネットで調べてポイントに車で直行というケースが多くなっただけに、画作りには集中できるが、その才があるかは別の問題だ。
今晩から発とうという方は、くれぐれもお気をつけて。
小生は大志の尻吹峠俯瞰から先程帰還しました。
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- 2015/10/30(金) 02:13:20|
- 只見線・会津口
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日没間近、空が薄らと紫色に染まり、連なる山稜が山水画のようだ
レタス畑の一日が、静かに終わろうとしていた

2015年9月 小海線
夕焼けは何故赤いか?なかなか簡単そうだが、そうはすんなりいかない。時として今回の画のように薄紫の空色となることがある。こうなるともう難解だ。理科系の性で、すぐに調べてみるが、レイリー散乱とかミー散乱とかが関係しているらしい。地震の予兆の放電現象が関係しているという説も・・・。ご存じのように、赤と紫は対極的な色だ。調べるほどに、謎は深まるばかりだ。
ただ、ウェブの世界には、いい加減な情報が溢れていることには何時も驚く。全く造詣のがない人間が、匿名で堂々と当てずっぽ的なことを言い放ち、もっともらしくウェブの検索に引っ掛かってくる。まあ、出典が明らかでない情報は、端からうわさ的な話としておいた方が、間違えはなさそうだ。
ところで、この紫色はどうして?
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- 2015/10/28(水) 00:30:30|
- 小海線
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稲作の一年の締め括りの、はざ掛けの脱穀の頃、山の木々は色付き始めていた
籾殻焼きの煙の中から、キハのヘッドライトが現れた

2013年10月 小海線
先日の記事で、小海線の稲刈り、飯山線のはざ掛けをお送りしたが、また小海線に戻って、脱穀の様子をご覧いただきたい。
はざ掛けで天日干しされた稲穂は、その場で脱穀され、玄米、稲藁、籾殻に分けられる。燃やされているのは籾殻だ。藁は色々と用途があるので、軽トラに満載して持ち帰る。これで、稲作の一年の作業が無事完了となる。
この籾殻焼きの写真を撮りたくて、何回も足を運んでいるが、なかなかタイミングが合わない。まず、脱穀日の予想がなかなか当たらない。さらに、籾殻焼きと列車のタイミングが合わない。煙の流れ具合となると、もう運任せだ。やっと、そこそこのが撮れたのがこの一枚だ。「日本の山里の秋」を象徴するような光景だが、列車を絡めるとなると、なかなか難しい。
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- 2015/10/26(月) 00:30:30|
- 小海線
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今年も只見川の錦秋の季節がやってきた
紅葉の紅色と見紛うようなタラコキハが、橋梁を渡って往く

2012年11月 只見線 会津宮下-早戸
今年も、只見線の紅葉号が迫ってきましたが、紅葉の進み具合はどんなもんでしょうか。例年より早目の運行で、暖かい日が続いていますので、厳しいかもしれませんね。みなさん算段に余念がないのではありませんか。
そんな中、風太郎さんの
この記事 に目が留まりました。滝谷の素晴らしい錦秋です。それと、何といっても国鉄急行色とタラコ色の編成が、こんなにも紅葉にマッチするとは。小生の失われた年代の羨ましいショットです。蒸気の場合、白煙でもない限り潰れてしまいますが、この編成では見ての通りです。改めて国鉄色には脱帽です。
そんなわけで、駅舎の灯からも一枚、只見の錦秋のタラコ色でプチコラボさせていただきます。この第三橋梁で紅葉号を待っている間の作です。昔と違って、キハを決して撮り逃がしたりはしません。蒸気とタラコキハ、甲乙つけがたいものがあります。蒸気の画は、またの機会ということで。
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- 2015/10/24(土) 01:26:11|
- 只見線・会津口
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針葉樹の防雪林を越えた峠の駅には、白樺の林が残っていた
悲運のDD53の力を借りて、D51の貨物が峠を越える

1971年3月 宗谷本線 塩狩 397列車 D51574
最果て鈍行321レからさらに1時間、今度はD51の下り貨物が登って来た。貨物は、名寄までは主にD51の担当だった。稚内に近づくほど貨物の量は減って、列車は短くなる。宗谷地方で見るキューロクの貨物の何倍もの長さの貨物を、D51は引いてくる。397列車は名寄機関区の仕業で、この日は574号機が当番だった。

後補機のDD531
後補機にDD53が付いてきた。DD53は、DD51をベースに上信越線用のロータリー式除雪機関車として製造されたが、結局出番が少なく、製造は3両で打ち止めとなった。この1号機も、宗谷本線の除雪という名目で新潟から転属してきたが、もっぱらここ塩狩での補機に明け暮れていた。2号機がC57の代役でばんものを牽引したことがあるが、結構な人出だったと聞いている。
ちょうどいい具合に、バックに駅舎が写っている。

塩狩駅舎
駅舎の部分を拡大してみよう。縦書きの大きな駅名票が掛かっている。その横には、国鉄時代のものとは思われないような「いらっしゃいませ」と書かれた看板がある。当時、手書き、手作りの面白い看板が各所にあった。今なら、こんなことをする人もいないだろうし、許されもしないだろう。
この後、さらに2時間程すると上りの最果て鈍行322列車がC5530でやって来るが、駅撮りとは言えない場所まで出張ったので、今回のお題の対象外だ。さらに、夕暮れ時に旭川まで乗った普通列車が、途中でで331レと交換するのを車中から撮影。この日は、宗谷本線に集中し、C55の4本の列車全てを撮影した。
東京では桜が咲きだす頃だというのに、この峠はまだモノクロームの世界だ。これらの画を見る度に、塩狩に行きたいという思いに駆られた。その後、2013年の初冬の雪の日に、やっと訪れることが出来た。幸いにもこの駅の景観や佇まいは、それ程変わっていなかった。これからも、この神聖な駅に、何回か出向くことになりそうだ。
これで、「或る日の塩狩」は、終わりです。
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- 2015/10/22(木) 00:38:51|
- 宗谷本線
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まだ春浅き山峡の構内に汽笛が鳴り響いた
北辺のC55が白煙を上げて旅立ってゆく 目指す稚内は遥か彼方だ

1971年3月 宗谷本線 塩狩 321列車 C5547
塩狩は、旅客扱いの駅だが、その主な役割は信号所だ。長い交換設備は、当時の列車の長さを物語っている。毎日10回ほどの交換がなされ、補機の切り離しなども見られた。
先の330列車から5時間程が過ぎた。日が昇って木々の雪は解けてしまった。途中3本の貨物がDDに推進されて峠を越え、キハ56などの急行「礼文」、「紋別」、「宗谷」、「なよろ」が通過していった。ただ、その姿を全く撮っていない。フィルムが貴重だったとはいえ、今なら考えられないことだ。
そして、正午前に最果て鈍行321列車がやって来た。朝の罐が最果て仕業で戻ってきた。客車の中は、何やら長距離列車の雰囲気が漂っている。スハフ32のサボの稚内という二文字が最果て鈍行の証だ。

321列車も乗客の乗降はなかった。山峡に汽笛がこだまし、最果て鈍行を引くC55から白煙が上がった。ホームには直立で見送る二人の駅員の姿があった。
この列車の最果ての旅は始まったばかりだ。名寄、音威子府、幌延と給水給炭カマ替えを繰り返して、終着の稚内を目指す。稚内到着は18:57。この先7時間の長旅だ。この列車の郵便車と荷物車が、沿線地域の人々の生活を支えていた。そのために、DC化されずC55牽引の客車列車として走り続けることができた。
爆煙よりもこんな情景の方に心が動かされるのは、後追い好きも相まって、過去を振り返る年になったこともあるのだろう。

当時のSLダイヤ情報のダイヤグラム C55のスジが赤く塗ってある
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- 2015/10/20(火) 00:21:16|
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前夜の雪で、峠の木々は雪化粧した。
北辺のC55が、朝の冷気の中、ドレインを絡ませて、通勤通学客を旭川へと送り届ける

1971年3月 宗谷本線 塩狩 330列車 C5547
塩狩という地は、三浦綾子の小説のせいなのか、とても神聖な場所のように思える。駅の傍らには、小説が実話であったことを証するかのように長野政雄顕彰碑がある。小説家の旧宅を復元した塩狩峠記念館も建てられている。
当時旭川のC55には三つの仕業があった。急行「利尻」での稚内往復の317/318レ、最果て鈍行での稚内往復の321/322レ、そして名寄往復の通勤通学の331/330レだ。ただ、3か月前に利尻の仕業はDD51に引き渡していた。旭川のC55にも無煙化が忍び寄ってきた。
この330レは、通勤通学時間帯の7時前に塩狩に到着する。定数一杯のスハばかりの4両編成で峠を登ってきた。ただ、この駅での乗降はほとんどない。発車のC55のドレインが客車に纏わりつく。塩狩峠を越えてしまえば、乗客の目的地の旭川はすぐそこだ。

雑誌だったか、ウェブだったか、僕らのバイブル「北辺の蒸気たち」の御三方のおひとりで、「
蒸気機関車がいた時代」の堀越庸夫さんが、駅撮りを好まれた理由について書かれていた。「駅には鉄道の全ての要素があった。」的な内容だったと記憶している。
小生も駅撮りばかりやっていたわけではない。当時、何故か、駅撮りは格下の写真だという風潮もあった。苦労して辿り着いた山中の爆煙は、確かに蒸気撮りの勲章かもしれない。精神論としては正しいかもしれないが、写真の良し悪しとは関係はない。
あれから40年以上経った今、ブログにアップする写真を選んでいると、どうしても駅撮りの画が多くなってしまう。その中には、当時の鄙びた木造駅舎や腕木信号機などの懐かしいストラクチャーがあったり、なによりも、そこに暮らす人たちの生活感に触れられたりもする。鉄道で働く方々の姿も忘れることが出来ない光景だ。
やっとこの年になって、堀越さんの境地にほんの少し近づけたということなのだろうか。
ただ、その堀越さんですら「もっと撮っておけばよかった。」という言葉が・・・。
誰もが若気の至りか。後悔先に立たないものだ。
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- 2015/10/18(日) 01:06:03|
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寄棟の母屋に土蔵 日本の典型的な農家の佇まいだ
秋の日を浴びて、くたびれた案山子がはざに寄り掛かって余生を過ごしていた

2015年10月 飯山線
前回は小海線の稲刈だったので、今回は飯山線のはざ掛けにした。ほぼ乾燥されていい色になってきた。好天が続いたので、おいしく仕上がったようだ。農家のおばさんが、乾燥具合を確かめにやってきたが、何粒か口に含んでにっこり。明日、取り込むことになった。
飯山線を見上げる刈田に、はざに寄り掛かったくたびれた案山子を見つけた。はざ掛けは、しっかり防鳥ネットで覆われている。案山子のお役目はもう無くなってしまったようだ。今時、案山子で鳥を追っ払おうなんてことは、誰も考えやしない。
何とも哀愁の漂う、農家の方々の郷愁のような案山子だった。
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- 2015/10/16(金) 00:15:17|
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赤とんぼが里から上がってくる頃、この地は穂香の季節を迎える
秋晴れに広がる金色の原、小海線の車窓からの眺めは、さぞかし美しいことだろう

2014年9月 小海線
どうしても稲穂の風景は、日本の四季を巡る鉄道紀行には必要です。今年の小海線の穂香の季節は、どうもタイミングを失してしまい、天候にも恵まれず、パッとしない画ばかりなので、昨年のものからお送りします。
ご覧の通り、この地は昔と同じように一面の田圃です。背景の南アルプスもお変わりありません。車両だけは代わってしまいましたが・・・。
秋晴れに照らされて、この年も穂香に満ち溢れていました。

ちょっと線路から離れるとこんな光景が。この日は休日で、この地区では家族総出の稲刈りです。農道に軽トラが集結しています。バインダーで稲束をつくり、はざ掛けにして天日干しにします。ただ、この米は自家用で、家族や親類縁者の口にしか入りません。田圃も低農薬有機の専用です。出荷用は別の田圃で、コンバインで一気に玄米にして低温乾燥倉庫に直行です。コンバインを操る人が一人いれば済みます。農家の方々は異口同音、天日干しの方が断然美味いとおっしゃっています。
このご家族に、写真のお願いをすると、快く諒解していただけました。お母さんは息子に、「良い顔をするんだよ。」なんて言ってくれました。天候にも恵まれ、まずまずの収量が得られ、農家の皆さんは、浮き浮き気分の収穫作業でした。
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- 2015/10/14(水) 00:28:15|
- 小海線
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車が少なかった時代、町を出るのも、帰ってくるのも駅からだ
町の玄関である駅には、その日もお見送りの人の姿があった

1973年8月 豊肥本線 肥後大津
高森線を撮り終えて、東京行きの急行「桜島」に乗るべく、立野から熊本行きの列車に乗った。立野から2つ目の肥後大津で交換となった。急行の表示がないので、「火の山」ではなさそうだ。
車中から乗り出して撮った一枚だが、とても懐かしい画となった。下見板張りの駅舎とハエタタキ、全盛時代のキハ58系、鉄板の蓋のあるホーム間の踏切、通過列車が無いのかホーム中央の渦巻き型のタブレット受器、どこを眺めても「国鉄時代」だ。
現在、豊肥本線は熊本-肥後大津間が電化されており、この駅で電車とディーゼルがそれぞれ折り返し運転を行っている。一日の乗降客が4000人近い立派な駅で、この頃の面影は殆どない。

しかし、一番目を引くのはやはりホーム上の人々だ。良く見えるようにトリミングしてみた。懐かしい制服の二人の駅員が下り列車の出発を見守っている。列車の乗降は終わっており、ホーム上の方々は見送りだ。どちらの列車にもお見送りがいる。何とも時代を思わせる服装の懐かしい光景だ。
ただ、今だって、お盆が終わるころ、子供と孫を見送る親の別れのシーンが、新幹線のホームで見られる。新幹線ホームの別れといえば、山下達郎のクリスマスイブ流れるコマーシャルシーンもあった。かなり古いが、転勤先に向かうサラリーマンの同僚のお見送りなんていうのもあった。
今も昔も、駅は変わることのない人との出会いと別れの場所だ。
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- 2015/10/12(月) 02:01:23|
- 豊肥本線
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