夕日に染まった空を、錆びた鉄路が映している
また一つ消えた路線への悲しみと、次がないことを祈る切なる思いが交錯した

2015年5月 江差線 渡島鶴岡
江差町は昭和40年頃をピークに、その後急激な人口減少が続き、年少人口はピークの半分以下になってしまった。その影響で江差線の木古内-江差間の営業収支は悪化の一途だった。事故、不祥事が続いた上に、北海道新幹線の開業が迫るこの時期、ドル箱路線を持たないJR北海道には江差線は重荷だったのであろう。
当初JR北海道と道は、江差線は全線廃止の計画だったが、函館市と北斗市の反発で五稜郭-木古内間は三セク化となったが、その先の関係自治体は、木古内、上ノ国、江差の弱小3町だったせいか、すんなり代替えバス化となった。
これでまた、北海道の鉄道地図からローカル線が一つ消えたわけだが、残っているのは本線と付く路線ばかりで、ローカル線は富良野線や札沼線などの極僅かだ。
ローカル線の凋落は、避けがたい時代の趨勢であり、旧国鉄のような放漫経営も許されるわけもなく、廃線は致し方ないところだろうが、何かいい存続や保存の手段はないものだろうか。特別に保安基準を緩めるとか、ボランティアに頼るとか、方法はまだまあると思うが、野暮な規則作りが仕事の役所と自己責任の発想に乏しい国民性の前には、廃線しか道がないのかもしれない。
こんなことを考えている最中にも、今年、JR北海道が次の廃線候補とも思われる8路線を開示した。驚いたことに、宗谷線の名寄以北、根室線の釧路以東、留萌線・釧網線・日高線の全線などを含み、総延長は900km近くに及ぶ。JR各社は、国民の財産である国鉄の路線を引継ぎ、存続させることを、第一義とする会社だ。採算性が著しく悪いJR北海道に対しては予め基金も用意されている。本来、安易な廃線は許されないはずだ。このような状態を見るにつけ、JR北海道が守りたいものが何なのか、疑いたくもなってしまう。
赤く錆びてはしまったが、今尚その姿を留める鉄路は、何十年もの間、雨の日も、凍てつく吹雪の日も、人々を運び続けてきた。今も何かを我々に語りかけているような気がしてならない。

これで、「錆びたレール 時間を止めた江差線」を終わります。
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- 2015/09/30(水) 00:34:51|
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長い冬が終わり、また春が眩しい新緑の季節を運んできた
しかし、この駅だけは、季節の移ろいに背を向けるように、眠りについたままだ

2015年5月 江差線 神明
その駅は何事もなかったかのように、人気のない原野の中にじっと佇んでいた。板張りの駅舎もホームも廃線の日から時間を止めたかのようだ。ただ、季節は確実に移ろい、また新しい春が巡ってきた。新緑の季節を迎え、本当なら人も自然も華やぐ頃だが、列車の来ない駅には、二度とそんな情景は戻ってこない。
ふと目をやると、吉堀側の踏切の先の鉄路は、外された枕木で塞がれていた。何の目的かは解らないが、廃線となったことを、いかにも誇示しているかのようだ。そして、その先には、また二条のレールが延々と、視界から消えるまでずっと続いていた。
この先には、江差線随一の難所である25‰が連続する稲穂峠が控えている。


2015年5月 江差線 吉堀
峠を越えると田園が広がり、民家が増えてきた辺りに吉堀駅がある。早くに木造駅舎は有蓋車に化けてしまっている。夕日が峠の向こうに沈もうとしていた。木古内はもうすぐだ。
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- 2015/09/28(月) 00:44:06|
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駅舎は代替えの函バスの待合所になった
列車と同じような運行ダイヤで利便性は維持されたが、何かが違っている

2015年5月 江差線 湯ノ岱
かつて、ニコンのテレビコマーシャルに登場したこともある湯ノ岱駅だが、集落は静まりかえっていた。
遠目には、駅両側の踏切につけられた柵以外には何も変わらないように見えるが、駅に入ってみると、駅名標だけが全て撤去されている。最早営業する駅ではなくなってしまった証拠だ。
駅舎はそのまま代替えの函館バスの待合所になっていた。ダイヤは廃線前の江差線と同じ6往復だ。これで確かに、廃線による地域住民への支障は理屈の上からはないはずだ。ただ、住民の方々の心の中には、今も隙間風が吹いていることだろう。地方創生とはいったい何なんだろうか。錆びたレールは沿線の衰退の象徴でしかない。
構内線路端に植えられたチューリップは今年も花を咲かせたが、その向こうには支柱だけが残された駅名標と、主を失い朽ちていく民家の姿があった。
そんな中、この湯ノ岱駅の構内で、来る10月11日に、「北海道夢れいる倶楽部」によって、「
湯ノ岱駅まつり」が催される予定だ。廃線を使った保線用軌道自転車体験乗車などが行われる。



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- 2015/09/26(土) 00:37:35|
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江差線の存続と地域復興を願って造られた天の川モニュメント
遂にその願いは途絶え、廃線に遅れること一年、この天ノ川駅も撤去された

2015年5月 江差線 天ノ川
何ともユニークなことを思いついたものだ。上ノ国町早瀬の天の川河川敷の、湯ノ岱-宮越間の64キロポストの線路端に、通称「天ノ川駅」は設置された。このホームの形をしたモニュメントは、函館市の「北海道夢れいる倶楽部」の手によって、水害からの復旧が危ぶまれていた頃の1995年(平成7年)の七夕の7月7日に造られた。勿論、このホームに列車が停車することはないが、JR北の計らいで列車が徐行したりしていた。
しかし、この倶楽部と上ノ国町の江差線存続の願いは、一旦は叶えられたものの、ここにきて、とうとう潰えてしまった。てんとう虫マークのモニュメントも廃線跡とともにその姿を残してきたが、維持が難しくなり、節目の20年が経過した直後の2015年7月11日に、解体撤去されてしまった。その枕木は岩見沢市栗沢町のアグリモニュメントに再利用されている。


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- 2015/09/24(木) 00:34:05|
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レールや駅舎は残るが、踏切だけは例外だ
撤去された踏切設備は、無残にも線路上に投げ捨てられていた

2015年5月 江差線 宮越
殆どの設備が突然放棄されたように、そのままの姿で残り、少し手を入れれば、また走れるような気にさせられるが、踏切だけはそうはいかない。車道の「踏切一時停止」を解除するためには、踏切を取り壊さなければならない。道床がアスファルトで埋められ、長年踏切を守ってきたその表示類は、無残に踏切脇に投げ捨てられ、レールとともに錆びついていた。
さすがに、この光景には心が痛む。只見線のような自然災害によって破壊されたものとは、また違う思いだ。人の手に掛けられて葬られた踏切には、何とも言えないもの悲しさがある。新幹線の立派過ぎる高架橋を作る財はあっても、こんな小さな踏切が守れないのかと、釈然としないこと頻りだ。

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- 2015/09/22(火) 00:12:08|
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列車が通わなくなった江差駅は、まもなく取り壊される予定だ
外された駅正面の駅名標は、いにしえ街道沿いの江差町郷土資料館に移された

2015年5月 江差線 江差
江差線は、函館本線の五稜郭と、日本海側のニシンの街の江差を結ぶ79.9kmの路線だった。五稜郭-木古内間は津軽海峡線の一部となっており完全電化され、青函トンネルを行き来する特急や貨物が走り抜ける幹線だ。ただし、JR北海道は両運転台の電車を持たないため、今でも江差線の各駅停車は函館運輸所のキハ40での運行が続けられている。
残る非電化区間の木古内-江差間42.1kmが、昨年2014年5月12日に廃線となり、76年の歴史を閉じた。これで桧山地方の全ての鉄道が消えてしまった。来年3月27日に決まった北海道新幹線の開業後の五稜郭-木古内間は、第三セクターの「道南いさりび鉄道線」として存続する予定だが、これとて前途は多難だ。鹿児島本線の切り売りの肥薩オレンジ鉄道と同様に、電化設備を使わずに、譲渡されるキハ40を使うとのことだ。
廃線からちょうど一年を経過した江差線の廃線区間を、本年5月に訪れてみた。レールや駅舎といった施設を撤去する経費すら惜しいのか、江差線は廃線の日から時間を止めてしまったかのようだ。今すぐにでも列車が現れそうな眺めだが、レールは赤く錆びたままだ。
撮影から時間が経ち過ぎてしまったが、このままお蔵入りにさせるのは忍びない。葬式鉄などといわれ、最終列車を大騒ぎして見送るのもいいかもしれないが、廃線となって朽ち果てていく鉄路から、「鉄道の本質」めいた何かに思いを巡らせていただければ幸いだ。



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- 2015/09/20(日) 00:23:10|
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速度がどんどん落ちて行く 止まるかと思いきや 何とか登り切った
何時もと違って、どうも力が出ない 調子が変だ

2015年8月 秩父鉄道
罐の調子は何時だって気紛れだ。現役蒸気の時代には、何度も力尽きてしまった現場を見てきた。この日のパレオ君は、どうしても力が出ないようだ。人が歩くほどの速度に落ちてしまい、機関助士が身を乗り出して、心配そうに走り装置を覗いている。あわや停止かと思われたが、何とか登り切ることが出来た。機関士はさぞかし肝を冷やしたことだろう。撮る側にとっては、こんなにありがたいことはないが、やっぱり、こっちも気が気でない。登り切ってほっとした。
デフのガリガリ君が目立たない、こんな角度から狙ってみたが、思わぬシーンと相成った。相当余裕をもって走っているように見える復活蒸気も、難所などとは言えないこんな場所でも、調子次第では、危ないことに見舞われてしまうようだ。だから蒸気はやめられない。
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- 2015/09/18(金) 00:12:44|
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西の空に沈んだ夕日の赤みが消えた時、蒼の時間が訪れた
狙い通りに、蒼く染まった山並みをバックに、上下列車が現れた。

2015年4月 小海線
蒼の時間は、カメラのホワイトバランスの悪戯といえなくはありませんが、画像ソフトの後処理では作ることができない調子です。まだ撮られたことのない方には、後処理で付けられたものと思われがちですが、そうではありません。後付けした場合、画全体がベタッとしたものになってしまい、臨場感はありません。
そこで、蒼の時間が訪れる僅かな時間帯を狙って撮影することになります。列車交換の時間は一定ですから、日没時間を考えながら撮影日を探ることになります。どの位の暗さになったら出現するかは、経験則的に分かります。この日は快晴で、バックの山並みがきれいに蒼く染まりました。横着をしてフィルターを外さなかったため、二か所に青のゴーストが飛んでしまいました。
「山線の春」の蘭越以来ですが、その後なかなか撮る機会がなく、今回はストックからのアップです。小生も含め、拙ブログにお出でになる何人かは「蒼の時間」をこよなく愛する方々ですので、もっと撮りたいのですが、そうは問屋が卸さないというところでしょうか。
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- 2015/09/16(水) 01:24:04|
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今年、小海線が全線開業80周年であることは、何回もお伝えしていますが、9月12・13日の土日に記念列車が走りました。列車名は「風っこ八ヶ岳高原」で、中込-小淵沢間を往復しました。
車両は、DD1611+「びゅーコースター風っこ」2両です。DD16には80周年のヘッドマークが付けられました。小生的には、チンドン屋列車のようで、ちょっと意気が上がりませんでしたが、ホームでのイベントで、それもチビロクですから、二日とも参戦しました。
それにしても凄い人出でした。特に天気の良かった12日の土曜日はお祭り騒ぎでした。DD16を求めて遥々関西方面からも大挙して撮影に来られており、大阪や神戸、なにわなどのナンバーの車も交えて、追っかけが繰り広げられました。関西の方々に話をお聞きしましたが、「トワイもなくなり、関西には、ろくな車両が走っていない」、というのが共通のご意見でした。
大人気のチビロクことDD16は、この長野総合車両センターの11号機が車籍をもつ最後の1両になってしまいました。ラッセル対応でない11号機が生き残るとは皮肉なものです。主な任務は小海線と飯山線のイベントと工臨です。
予想通りやって来たDD16が、小海線80周年に花を添えました。一人ぼっちになってしまったチビロクですが、まだまだ小海線のためにも頑張ってほしいものです。
取り敢えず、新鮮なうちに「風っこ八ヶ岳高原」の姿をお伝えします。

2015年9月 小海線

ヘッドマークとチビロクの顔を拝むための一枚です
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- 2015/09/14(月) 00:29:48|
- 小海線
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この画は決して廃線跡を撮影したものではない。現役で営業中の1972年7月の日中線の上三宮駅だ。
「日中走らぬ日中線」というフレーズは有名だが、時刻表には確かに日中の列車の記載はない。キハが最後まで入線せず、C11やDE10の客レの撮影には、多くのファンが訪れた。日中線の駅といえば、終点の洒落た三角屋根の熱塩駅が圧倒的に露出度が高く、廃線後は日中線記念館になっているということだ。ただ、どちらも今回のお題ではない。
日中線は喜多方から延びた11.6kmの延伸計画が挫折した盲腸線だが、途中に何れも木造駅舎の会津村松、上三宮、会津加納の3駅が存在した。とりわけ、鄙びていたのが、この上三宮だ。一部の戸や窓は無くなっており、廃屋と見紛うほどだ。駅舎の中には、ポツンと手書きの時刻表が吊り下げられていた。時刻表のチョークの落書きは、男子生徒の仕業と思われる。線路には夏草が生い茂り、列車が来るとは思えない。第一級のローカル線の眺めだが、何故にこんな閑散とした鉄道が存在できたのか。けっして国鉄に余裕があった訳ではない。そうこうしているうちに、国鉄は分割民営化され、ローカル線は消えていった。
当時の撮影旅行では、追加出費を要する周遊券にない交通手段は、極力使わないことにしていた。しかしながら、さすがにこの本数では、走行写真を撮ろうとすれば、どうにもならない。並行して走る県道のバスも利用せざるをえなかった。
ちなみに、この駅の近くには、こんな撮影地があった。高辻烏丸さんの「煙を求めて幾千里」の
この記事 の押切川橋梁だ。
日中線が廃線になったのは、この10余年先の1984年4月1日のことだった。


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- 2015/09/12(土) 00:35:35|
- 日中線
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