登り列車のヘッドライトに 、暗闇にほんのりと明りが灯った。交換列車のテールライトが雪に滲む。
降り続く雪、今日も山間の小駅で、ささやかなドラマが繰り返される。

2012年1月 小海線
中島みゆきに「ヘッドライト・テールライト」という曲がある。某放送協会の「プロジェクトX~挑戦者たち~」の主題歌「地上の星」のカップリングとして2000年に発表され、同番組のエンディングに使われた。とても好きな曲だ。
中島みゆきは、1975年にデビュー曲「アザミ嬢のララバイ」、翌1976年にファーストアルバム「私の声が聞こえますか」をリリースしている。このファーストアルバムのジャケットを飾る風情ある雪原の写真は湊雅博氏の作品だ。
彼女のデビューの頃、現役蒸気が雪の北海道で終焉の時を迎えていた。まさに、僕らの一つの時代が終ろうとしていた。
行き先を照らすのは まだ咲かぬ見果てぬ夢
遥か後ろを照らすのは あどけない夢
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない
ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

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- 2015/01/30(金) 16:45:00|
- 小海線
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C12とC11のプッシュプル列車がやって来ました。
結構煙を吐いて力走しています。この後、絶気合図が響き渡ります。

2014年11月 真岡鐡道 折本-ひぐち
今回は、こんなものを見た的なものです。昨年11月23日の真岡鐡道のプッシュプル運転です。「下館駅なか・駅まえフェスティバル」でのC12の展示のため、送込みのDE10が蒸気に置き換えられました。と言うことで、行きが背中合わせのトンボ、帰りは2両ともバックとなりました。まるで後藤寺線みたいな何でもあり編成です。まあ、タンク車ですから前後は自在ですからね。画はバックでの帰りです。
この運転も「プッシュプルSL乗車体験」というイベントの一つですので、機関士さん達はやる気満々。煙は出すわ、汽笛もばんばん鳴らします。それに、絶気合図を鳴らすんですよ。現役時代に八高線の東飯能-高麗川間の鹿山峠で、D51重連の絶気合図を散々聞きましたが、罐によって少しずつ音程が違うので、まるで罐が会話しているかのような小気味よいものでした。久し振りに聞けて大感激でした。ただ、慣れていないんですね、絶気合図に。調子がちょいと変、切れも余韻もいまひとつで、笑っちゃいました。重連だの、PPだの練習する機会がもっと必要ですね。
来る2月11日の建国記念日には重連が予定されていますが、今度はどんな絶気合図を鳴らすんでしょうか。
実はこの画、カメラの高感度域のお試しも兼ねています。ISO1600です。まだまだいけそうですね。フィルム時代には考えられなかったような撮影スタイルが可能になっています。機材は進化しても、腕前はちっとも進歩していませんが。
- 2015/01/28(水) 21:59:14|
- 真岡鐡道
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その朝、落葉松の防風林は霧氷に被われた
その並木の中を、まるで幻のようにキューロクが現れた

1975年3月 広尾線 幸福
この帯広の広大な畑は、北海道の各地にみられるような官製の屯田兵によるものではない。この地の本格的な開拓は、1883年に依田勉三によって現静岡県松崎町に結成された「晩成社」27人の入植に始まる。入植当時から春先の強風から作物を守るために耕地防風林として落葉松が植えられた。
小生が、帯広の落葉松の防風林の映像を見たのは、某放送協会の「新日本紀行」というテレビ番組でのことだ。樹木好きの小生は、それ以来、何時かこの防風林の中を走るキューロクを見たいと思った。国土地理院の地図を眺めては、訪れることのできない撮影場所を、暫くは想像するだけだった。帯広は畑も防風林も規模が大きく、容易に地図から落葉松並木の場所を察することが出来た。帯広から北に伸びる士幌線、太平洋岸へと続く広尾線。しかし、防風林に限れば広尾線だ。それも、愛国、大正、幸福という開拓地らしい駅名の辺りだ。
当時の幸福駅は、まだブームになる前で、ドア一つ分のほんの数mのホームと極小さな木造駅舎があるだけで、周りに民家も無かった。もちろん無人駅だ。駅舎の中には、北海道を旅する若者のメッセージや定期券が所狭しに張ってあったが、この駅で旅行者やキューロクの撮影者に会うことは最後までなかった。
何回か訪れた後のこの朝、やっと思い描いていた光景に巡り会えた。放射冷却によって作り出された霧氷に被われた落葉松並木。小雪が舞い、薄らと霧に包まれた乳白色の世界。まるで幻を見るかのように、キューロクはその姿を現した。何年も待ち望んできた情景に、一瞬寒さを忘れた。
この落葉松防風林は、士幌線の名士でもある
くろくまさん も紹介されています。くろくまさんの、きめの細かい美しい帯広の雪景色と併せてご覧いただければ幸いです。
- 2015/01/26(月) 01:43:38|
- 広尾線
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人知れず佇む山間の鉄橋。静かな時間が流れ、ゆっくりとだが、留まることなく季節が巡って行く。
吹雪が去り、薄日が差してきた。雪化粧した木々が列車を迎えた。

2015年1月 小海線
この鉄橋は、小生が定点撮影しているうちの一箇所だ。この鉄橋の季節の移り変わりを、今後定期的にお届けしたい。初回は、「雪景色」だ。吹雪が去った後、木立は皆雪化粧し、渓谷は静けさに包まれた。雪景色の中をキハ110が野辺山の高原地帯へ登って行く。
この千曲川は、川上村の秩父山塊の甲武信ヶ岳を源流とし、新潟県に入って信濃川と名を変えて、新潟市で日本海に注ぐ日本一長い川だ。小海線の信濃川上以北はこの千曲川に沿って小諸を目指すことになる。さらに下流の豊野以北はJR東日本長野支社の兄弟非電化ローカル線の飯山線がこの川に沿うことになる。蒸気時代、小海線の夏場の野菜列車のために、飯山線や七尾線のC56が借り出されたものだ。
この場所にやって来るのは、少なくなった本流の大物イワナ、アマゴを狙う渓流の釣り師が大半で、撮り鉄はその形跡しか見たことがない。ここの渓流釣りの解禁は2月16日と早いが、早期に居付きの大物を手にすることは至難の業だ。また、太公望達が冬の川を遡って来ることだろう。ここに限らず一帯は有害鳥獣(鹿・猪)の駆除がなされているので、服装とワナには注意したい。
- 2015/01/23(金) 16:58:58|
- 小海線
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撮影者の去った八木岡にDE101535が姿を現した。
立ち上る排気の揺らぎは、このDDが生きている証拠だ。

2015年1月 真岡鐡道 寺内-真岡
このDE101535機は、1971年に川崎重工兵庫工場で生まれた。青森機関区のキューロクの後継機として、長年に渡り北海道と行き交う車両を捌いて来た。晩年に宇都宮運転所に転籍している。2004年にJRで廃車になり、DD1355の置き換えとして真岡鐡道にやって来た。旋回窓とスノープラウは宇都宮時代に撤去されている。所有しているのは、C1266と同じ芳賀地区広域行政事務組合だ。ちなみにC11325は真岡市だ。
ただ、このDE10、蒸気屋には見向きもされず、凸型DD屋にはSL運転の脇役視されているのか、ぶら下りのSLが気に食わないのか、ロケーションが今一だからか、撮影者を見かけることはまず無い。よって、DE10好きの小生は、誰にも邪魔されることも無く、気兼ねすることも無く、存分に撮影できるという訳だ。国鉄時代を彷彿とさせるその姿とエンジン音が堪能できるのは、皮肉なことに、ここが復活蒸気の路線だからだ。時代は変わり、今や蒸気と凸型DDは共存の関係だ。平日は真岡の機関庫に大切に仕舞ってある。部品取り用の分身もいる。こんな老後を誰が予想しただろうか。
もっとまともな凸型DDの画をご覧になりたい方や、俯瞰画がお好みの方には、
REIさんの「ディーゼルの鼓動」がお勧めだ。好みは人夫々だが、一度お試しあれ。
さて、このままシャッターを切り続けると、次にどんな画が出てくるかは、蒸気屋の諸兄が想像する通りだ。それは後日ということで。貧乏症の小生にとってはおいしい列車だ。
- 2015/01/22(木) 00:32:40|
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八高線は東京・練馬に住む少年が、日帰りで行ける数少ない蒸気路線だった。
誰が名付けたのかは知らないが、金子坂とは何とも粋な呼び名だ。

1970年2月 八高線 東飯能-金子 通称「金子坂」
蒸気撮影を始めた頃は、貨物のダイヤなど持っていなかったし、入手する知恵もなかった。線路を移動して、来たやつを線路際で撮るといった具合だった。列車が来ないかと、レールに耳を当ててみたりもしたものだ。何回か通っているうちに、大体のスジは頭に入ってくる。今考えると、何とも悠長な、我ながら信じられないような行動パターンだった。
ただ、こんな塩梅だと、なかなか線路から離れることが出来ない。当時線路は公設の歩道のようなものだったので、ほぼ通行自由。ただし、死んでも文句を言わない自己責任だ。あの頃、汽車を撮っていた少年の多くが、親たちに「汽車に轢かれて死ねれば、本望だろうよ。」と言われていたはずだ。
- 2015/01/19(月) 21:43:18|
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小海線の2015年は吹雪とともにやって来た。
気温は氷点下7℃。集落への通り道に、雪がみるみる積もってゆく。

2015年1月 小海線
数年前までは、元旦と言えば実業団駅伝をテレビ観戦しながら一杯やるのが恒例だったが、このところは、ホームの小海線の撮影と決めている。
今年は、小雪を期待して家を出たが、いきなりの吹雪となった。この山間地帯の気温は氷点下7度。元旦の朝だけあって集落はひっそりとしている。轍のない集落への道に、雪がみるみる積もって行く。それでも列車は定刻にちゃんとやって来る。寒冷地の路線だけあって雪にも結構強い。午後には雪は上がり、新雪の風景が広がった。吹雪に悩まされなければ見られない景色だ。
凍結した道路を慎重に辿り帰宅。やっと夕刻に酒にありつけた。やはり初仕事の後の酒は格別だ。終ってみれば撮影には面白い一日だった。ただ、今年は大荒れの一年となるやもしれない。
- 2015/01/17(土) 00:00:00|
- 小海線
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ずっと石仏と汽罐車を見守ってきた、この八木岡の欅は、何時からここにいるのだろう。
美しい白煙をたなびかせて、今日もC11がやって来た。

2014年3月 真岡鐡道 寺内-真岡
樹木の好きな小生は、八木岡の欅はいつも気になる。
日本各地に色々な孤高の樹があり、人心を集めている。屋久島の縄文杉、奥日光小田代が原の貴婦人(白樺)、北海道美瑛には親子の木だの、セブンスターの木だの、ケンとメリーの木だの色々ある。陸前高田の奇跡の一本松もこの類か。数え出したら限がない。どうも人は孤高の樹に何かを感情移入したくなるらしい。
八木岡の欅は、田んぼの中の一本木のため、欅本来の美しい樹形となっている。年中剪定される街路樹や生存競争の厳しい林の中では、なかなかこのような綺麗な樹形にはならない。
人混みが苦手な小生ではあるが、八木岡の欅は度々撮っている。月並みな画になってしまうが、この欅の樹形は素晴らしい。冬枯れの欅の枝振りは芸術品と言っていい。
- 2015/01/14(水) 23:32:36|
- 真岡鐡道
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朝霧が晴れ渡った夏の大畑ループに2条の黒煙が立ち登る。
本務機の煙をかき分けて、補機の懸命の押し上げが続く。

1971年7月 肥薩線 大畑ループ線
吉松行きの混合列車は大畑のスイッチバックを抜けて、ループ線の登りに掛った。この先のサミットの矢岳駅まで渾身の力走が続く。引き込み線一杯の長さのこの列車は、大畑と真幸の2駅では、スイッチバックもしなければならない。この補機は本務機とメカ的に協調運転しているわけではない。何を思って押し続けているのだろか。矢岳越えの呪縛からか。止ることも、オーバーランすることも許されない緊張の仕業だ。
その事故は、1945年8月22日に、吉松-真幸間の618mの山神第二トンネルで起きた。悲惨な鉄道事故として現吉松町の郷土史にも記録されている。当時もD51によるPP運転が行われていたが、この日の上り混合列車の客車、貨車は復員兵で溢れ返っていた。ところが、この列車は補機をこのトンネル内に残して力尽きてしまったのだ。高温の煙に巻かれた復員兵は自力でトンネルから脱出しようと、煙が来ない標高の低い吉松側の出口に向かった。しかし、本務機の機関士は、機能を失った補機の状態から前進は困難と判断し、乗客と補機の乗務員を救おうと、後退によるトンネル脱出を試みた。その結果、暗闇の復員兵は次々と補機に轢かれ、地元民らの献身的な救助もあったが、死者49名、負傷者50名以上の大惨事となってしまった。この日は第二次世界大戦の終戦から7日目のことだった。なんと惨いことだろうか。その後、地元には慰霊塔が建立され、毎年供養がなされている。
この事故の教訓から、山線のD51には強力な重油併燃装置、大型の集煙装置等が装備され、独特なスタイルを造りだすこととなった。
重油併燃装置によって、火床が少々荒れていても、いざとなれば出力を維持できるようになったが、矢岳越えの機関士は、この事故のことを決して忘れることはなかったはずだ。この翌春の改正で、肥薩線矢岳越えでの蒸気機関車の運用は、60年余りの歴史に幕を下ろした。
- 2015/01/12(月) 00:00:00|
- 肥薩線
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幌延駅に稚内行き51Dスーパー宗谷1号が進入してきた。
北緯45度の冬の幌延の空はどこまでも青い。キハのボディーカラーが青空に映える。

2013年11月 宗谷本線 幌延
幌延町は、ラムサール条約湿地のサロベツ原野にある人口2,500程の小さな町だ。町の名は、アイヌ語の「ポロ・ヌプ(大きい・平原)」に由来する。明治32年に福井県団体の入植15戸が町の始まりとされている。昭和30年代に畑作から酪農への転換が図られ、現在は生乳生産の大規模酪農地帯となっている。
この地には雪印メグミルクの幌延工場がある。北海道の雪印乳業の多くの工場が閉鎖や売却の憂き目にあったが、幌延工場は辛うじて生き延びた。雪印の名とそのスノーブランドを知らない方はおられないと思うが、北海道民の雪印への思い入れは、内地の人の想像を超える。今、北海道の乳製品の保護が話題になっているが、その製品化と雇用を一手に担ってきたのが雪印こと雪印乳業だった。北海道企業の名士であった雪印乳業は、度重なる不祥事の末に、乳食品事業に特化した雪印メグミルクに衣替えした。この会社のコーポレートスローガンは『未来は、ミルクの中にある。』だ。初心に回帰しようということだろうが、末永く北海道の酪農と雇用に貢献してもらいたいものだ。もう、道民を悲しませることは許されない。
かつてC55の引く最果ての鈍行列車は、この駅で給水、給炭を行っていた。今無き羽幌線の終着駅で、機関支区が置かれていたこともあり、機関庫や転車台、鉄道官舎等も存在していたが、現在は、その僅かな痕跡を残すのみだ。1987年に羽幌線は廃線となったが、それに沿う日本海オロロンラインには、沿岸バスが札幌-豊富間に特急はぼろ号を運行させている。
スーパー宗谷キハ261系は、あと1時間程で終着の稚内に達するが、この車両のエンジンは乗務員からフルノッチ5分と言われていた。JR北によって強引にパワーアップされたインタークーラーターボのN-DMF13HZH(J)エンジンは、460ps、最高速度130km/hを叩き出すが、無理が祟り、大きな問題を引き起こすこととなった。
- 2015/01/09(金) 20:41:38|
- 宗谷本線
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