1939年に、この駅が開業した時、駅員12名、保線員7名を擁していた。石狩山系に端を発する音更川、中の川、十四の沢の三川が合流する三俣の地が、鉄道敷設により森林伐採の一大拠点となった時のことだ。士幌線がこの十勝三俣まで通じたとき、三俣には1本の道路も通じていなかった。原木の輸送は、音更川の流送に頼っていた。鉄道の開通により貨車輸送が始まり、三俣からはさらに2本の森林軌道が沢筋に伸び、道内屈指の木材生産拠点へと発展していった。それも束の間のことで、鉄道沿いに国道が通じ、製材拠点は三俣から上士幌へと移り、1964年には木材の輸入が自由化され、国産材の需要低迷により、十勝三俣は急速に衰退していった。
士幌線は帯広から十勝三俣までの73.8kmの路線だが、改正鉄道施設法には上士幌から上川へ至る鐡道と謳われている。その本気度は伺い知れないが、人跡未踏の峻険な大雪山麓の標高1450mの三国峠を越える計画だった。さすがに工事に入ることなく国鉄の終焉を迎えている。その三国峠に国道273号線の道内国道最高標高となる三国トンネルが開通したのは1974年のことで、その後の改良工事で1993年に通年通行化されている。その273号線の三俣から上川の国道39号線の合流点まで、人家の全くない大雪山の原生林を往くことになる。北に向かって上り勾配が続く士幌線では、過去3回の貨車暴走事故があり、気動車との正面衝突で死亡者も出している。
この写真を撮った1977年3月には、最盛期に1500人いた住民は、5世帯14人にまで減っていた。駅周辺には空き家が目立ち、既に廃墟化が進んでいた。糠平-十勝三俣間の乗車人員は平均6名と、信じられないような赤字ローカル線に転落していた。そのため、翌年の1978年12月25日に、全国初の代行バス輸送へと切り替えられた。ただ、延伸時の再起に備えて鉄道施設は残された。しかし、士幌線自体が第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化直前の1987年3月23日に全線が廃止された。結局、鉄道営業を休止した十勝三俣に、列車が再び通うことはなかった。長らく放置された施設は荒廃が酷く、廃止後も手つかずで、現在の鉄道遺構に至っている。


士幌線のキューロクが無煙化されたのは1975年4月だった。上士幌までは頻繁に通っていたが、十勝三俣まで入線することは稀だった。音更川のアーチ橋を渡るキューロクをカメラに収めようと、誰もが情報収集に余念がなかったが、その姿を拝めたのは、一部の熱心な士幌線ファンだけだった。1977年当時、構内には蒸気時代の給水塔、転車台、機関庫などが残されていた。この頃、列車は1日4往復で、最終の下りがこの十勝三俣で駐泊し、翌朝の5時台の上り始発で帰っていた。機関庫は気動車の駐泊にも使われていた。道内最高の標高662mの極寒の高地駅ですら、国鉄時代にはそのような運用が行われていた。1998年まで、駅舎と構内は残されていたようだが、現在は殆どの施設が撤去され、広大な更地になっている。徐々にまた、石狩山地の原生林へと戻ってゆくのだろう。
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テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2018/02/04(日) 00:00:00|
- 士幌線
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