前夜からの雨がやっと上がった
棒線となった沼ノ沢を始発が下る

2017年10月 石勝線 夕張支線 沼ノ沢
近頃の写真は「スッキリ」、「クッキリ」、「鮮やか」が時流だ。SNS時代の特徴だろうが、とにかく簡単に見た目を良くするには、この三拍子が欠かせないようだ。各社デジカメの解像エンジンには、各様の「仕上がり設定」機能が組まれ、レタッチなんて面倒なことはすっ飛ばして、直接思いの仕上がりになるから手回しがいい。写真にそれ程興味があるわけでもなく、「いいね」欲しさのSNS時代に突入して、お手軽三拍子写真が氾濫することになったのだろう。今回は、そんな時流に抗うタイプの写真を上梓したい。スッキリでもなく、クッキリでもなく、鮮やかでもない。レタッチでわざとそうしたわけではなく、そういう情景に出会ったということだ。今風にレタッチするとこの画は台無しになる。ついつい時流に流されそうになることに反省を求めるかのようだ。潤いのある質感を原版の解像度でご覧いただけないのが残念だ。
さて、講釈を垂れるのはこのくらいにして、沼ノ沢の話に移ろう。賑やかだった沼ノ沢をご存じない方には、風景写真的なローカル線をお楽しみ頂けたら幸いだ。もし、在りし日の真谷地炭鉱のことをご記憶の方なら、沼ノ沢の変貌ぶりには驚かれることだろう。写真の夕張線の線路の左側には北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道の積み込み線が並んでいた。つまり、この立ち位置は何本ものレールが敷かれた駅構内そのものだった。本線は左手に見える建屋の前辺りを通って真谷地へと伸びていた。鉄道施設に隣接して北炭夕張炭鉱の選炭施設もあり、そこから伸びるコンベアホッパーが、後ろ手の積み込み線へと繋がっていた。デゴイチやキューロクの汽笛が絶えない駅だったが、そんな往時の賑わいが嘘のようだ。唯一残った夕張線の鉄路もなくなり、この風景すらも失われていった。淡いトーンのあの日が余計に郷愁を誘う。
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- 2020/09/29(火) 00:00:00|
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かつての賑わいは叢となって消えた
雪解けの来春、最後の軌道も役目を終える

2017年10月 石勝線 夕張支線 鹿ノ谷
随分とすっきりした駅になったものだ。多くの引き込み線が鬩ぎ合う広い構内。夕張鉄道の機関区もあり、機関庫や転車台もあったはずだ。頻繁にセキを連ねた石炭列車が行き交い、構内にはいつも何条かの煙が上がっていた。そんな賑わいのあった構内は一面の叢になり、今は石勝線支線となった一条の軌道が残るのみだ。駅舎は元々のものだと察せられるが、横幅がこんなに狭くなかったはずだ。かなり減築されているようだ。今のこの駅を初めて訪ねた人は、多分、風情のある木造駅舎が佇むローカル線の一駅にしか見えないだろう。
さて、街はと云うと今は緑の中にカラフルな家々が建ち、パッと見には瀟洒なリゾート風に見えなくもない。何時の間に、こんな町に生まれ変わったのだろうか。炭鉱町時代には、この周辺は見渡す限りの炭鉱住宅だった。大規模分譲住宅地のように整然と下見板張りの炭住長屋が延々と続いていた。色彩に乏しい風景は、まさにモノクロの世界だった。鹿ノ谷辺りは炭鉱幹部の住宅街だったようだが、はた目にはその違いに気付かなかった。最盛期116,000人の人口は、現在8,000人程だ。駅がこうなって当然というような激しい減リ方だ。
現役蒸気の末期、夕張線には多くのファンが押し掛けていた。炭鉱住宅を背景に往く石炭列車が狙い目だった。相次ぐ炭鉱の閉山に、夕張鉄道も三菱大夕張鉄道もなくなり、かつての多くの炭鉱町がそうであるように、現在の夕張にも石炭の面影は殆どない。ただ、この町が他と違うのは、炭鉱業からの脱却に大きな失敗をしたことだ。その影響からか、夕張市は夕張支線の補助金目当ての積極的廃線を選択した。夕張鉄道は早々に鉄道事業からバス事業に転身し、夕張の基幹公共交通を担っている。残された夕張線もあと半年の命となった。

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- 2018/09/22(土) 00:00:00|
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大夕張鉄道の廃止から30年の年月が流れた
辛うじて生き長らえた1本のレールも風前の灯だ

2017年10月 石勝線 夕張支線 清水沢

夕張炭田は、夕張山地に点在する多くの炭鉱から成っている。夕張線は夕張川を遡って清水沢まで来るが、ここで夕張川と分かれて、北炭夕張炭鉱へと向う。一方、夕張川沿いには三菱石炭鉱業 大夕張鉄道が上流へと延び、南大夕張を経て、大夕張炭山へと続いていた。石炭産業が斜陽化する中、大夕張炭鉱に替わって、当時の最新鋭の技術をもって新たに開発されたのが南大夕張炭鉱だったが、大爆発事故に見舞われ、低価格の海外炭にも抗しきれず、合理化に伴い大夕張鉄道は1987年に廃止、南大夕張炭鉱自体も1990年に閉山した。最盛期の人口が25,000人近くあった大夕張の炭住街は、2014年に夕張シューパロダムの湖底に沈み、その面影すら偲べなくなってしまった。
かつて夕張線のホームは、駅舎前の大夕張鉄道のホームと跨線橋でつながっていた。跨線橋の下には6線ものレールが敷かれていた。大夕張鉄道は気動車を導入したことはなく、最後まで機関車が客車と貨車を牽いていた。炭鉱鉄道らしくダルマストーブの客車が活躍していた。大夕張と国鉄の機関車が走り回っていたそのヤードは全て無くなり、夕張線の島式ホームがポツンと残され、旧下り線の1線のみとなってしまった。この日、上りの始発の到着を待つのは4人だけだ。炭鉱が栄えていた頃には、一日2,600人もの乗車人員があったとは、到底思えないような寂しさだ。駅前の商店街は廃屋ばかりが目立つ。良きにつけ悪しきにつけ、炭鉱と栄枯盛衰を共にした町の現在の姿だ。




夕張線には遅くまで腕木式信号機が残されていたが、現在は新夕張-夕張間が1閉塞であるため、この駅にも信号機は存在しない。何年か前までは有人駅だったようだが、今は無人化され待合室の発券窓口なども塞がれてしまっている。待合には、古き良き時代のこの地の写真が展示されている。この中に、ブログ
「風太郎のPな日々」の風太郎さん の作品があるそうだ。さて、どれでしょう。

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- 2017/12/21(木) 00:00:00|
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支線となってひっそりと走り続けて来たが、終わりが見えた
夕張山系の紅葉の中を往く姿も、来年で見納めだ

2017年10月 石勝線夕張支線 清水沢
石勝線に編入され、その支線扱になったのが幸いしてか、夕張線は廃止を免れて来たが、夕張市からの廃止提案という、予想外の展開で結末を迎えることになった。2019年春を目途に廃線となることとが決まっている。石炭を搬出する目的で敷設された夕張線は、札幌指向の旅客輸送を担うには、かなりの遠回りになる。住民は、かつては夕張鉄道を使って札幌に出向いていたが、その路線が途絶えてからは、もっぱらバス便を使うことになった。札幌とのバス便は夕鉄バスと中央バスが運行しているが、この夕鉄バスこそが夕張鉄道株式会社の現在の姿で、国鉄と張り合っていた鉄道時代から一転して夕張のバス事業に専念している。一方、中央バスは札幌に本社を置き、主に高速バスを道内各地へと走らせている会社で、JR北海道の最大のライバルだ。最大時12万人を誇った人口は8,600人まで減り続け、バス路線についても縮小傾向にはあるが、運賃、所要時間、利便性の何れにおいても、JRとは比較にならない。東京出身のしたたかな市長が、先手を打って積極廃止に傾注したのにも頷ける。
夕張線の往く夕張山地は、道内でも紅葉の見事なことで知られた山塊だ。現在の新夕張が、かつては紅葉山という駅であったことを記憶されている方も多いだろう。この日は、10月下旬ではあったが雪の朝になった。湿った重い雪が降りしきる中、夜明けを迎えた。先ほどまで白いものが残っていたが、残念ながら列車が来る頃までには消えてしまった。朝の2往復が終ると、夕張線の午前は打ち止めになる。年を越すと、夕張線の最後の一年が始まることになるだろう。
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- 2017/12/15(金) 00:00:00|
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