大雪山の麓に不思議な町がある
写真文化で元気を得た東川町だ

2017年10月 富良野線 西聖和
富良野線の西聖和駅は旭川市西神楽にある。写真奥の丘の上には旭川空港があり、所在地は旭川市西神楽と上川郡東神楽町に跨っている。ちなみに空港ターミナルビルは東神楽町内にある。どうして東西の神楽町の属する自治体が違ってしまったのかについては別の機会にしたい。今回の話題は、その先の旭川市の東隣となる東川町で、町は大雪山まで続いている。東川町の話なら、東川町の駅を出すのが当然だろうと怒られそうだが、残念ながら、東川町は「国道・鉄道・水道のない町」として有名だ。
国道と鉄道はともかくとして、水道がないというのは一般的には理解できないだろうから、少し説明しておこう。東川町は北海道で唯一水道のない自治体となる。水は住民自らが自己責任で手に入れることになっている。美味くて安全な大雪山系の伏流水が豊富に流れているから、何処を掘っても簡単に生活水が手に入るというわけだ。しかしながら、近年農村地帯では良質な水が得られない事例が増えてきているので、町が支援する制度も出来ている。余談になるが、こあらまの山梨は、水道もあるが井戸を掘った。念入りに50m程ボーリングして岩盤の下から無垢の八ヶ岳の天然水を汲み上げている。塩素無しの水に慣れてしまうと、水道水で淹れたお茶の不味いこと、色の汚いこと。現在は、水資源の保全と水道の利用促進から、新たに井戸を掘ることは通常許可されない。掘っておいて本当に大正解だった。勿論、大腸菌類などは検出されない。
さて、話を戻そう。そんな東川町が「写真の町宣言」をしたのは、35年前の1985年のことだ。大雪山系の麓の大自然を求めて写真家が集まりだしたのが切っ掛けだが、人口33万人の北海道第二の都市の旭川に隣接し、発着率98%を誇る旭川空港が至近距離にあることが、移住者を呼ぶ決め手になったことは確かだろう。しかし、そういう好条件を差し引いても、東川町の躍進振りは抜きん出ている。過疎化と少子高齢化の著しい地方においては奇異な存在ですらある。1994年の人口は7,000人程だったが、2015年には8,000人を超えた。ゆっくりとだが確実に人口が増えてきている。
写真の町を地道に育ててきた結果、移住者の芸術的な活動や起業が文化的な価値をもたらし、多くの雇用をも生むことになった。そして、それがまた移住者を呼ぶという好循環が出来上がった。写真をやる方なら、この町の写真関連のイベントなどをご存知のことだろうから、その辺りは割愛する。一方、本来の基幹産業である農業、木工業にも手抜かりはない。『東川米』のブランド化にも成功し、農業の後継者にも困らないと聞けば驚きだろう。大都市旭川のベットタウン的なところもあるだろうと勘繰れば、旭川への通勤者よりも、旭川からの通勤者の方が多いというから、どうなっているんだろうか。
確かに色々な町おこしの具体例を列挙していけば理屈的には納得だが、決定打は違うところにあるような気がする。実は、移住者には「この町の元気なところにやられた」的な声があまりにも多い。この町は「ウェルカム精神が強い町」とも言われ、役所は役所で徹底的にサービス産業化していて、良い意味で役所らしさがないという。とは言え、「写真文化」という手ごわい相手に、全てが順風満帆であったわけではない。しかし、挫折も、諦めもしなかった。東川町がどんなところで、どんな人に来てほしいか。ブレることのない35年間の積み重ねが奇跡の町を生み出したのだろう。
実はこあらまも東川町への移住を検討したことがある。やはり興味のある写真家に在住の方がおられたのが切っ掛けだった。北海道は好きだし馴染みもあるし、上さんは道産子で旭川には親戚もいるし猛反対するはずもないという目算もあった。結果的には、無難に山梨への半移住となったが、今でも未練がないわけではない。半年でも1年でもいいから長居出来ないものかと考えてみたりもしている。
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- 2020/10/09(金) 00:00:00|
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富良野の語源は十勝の硫黄臭だ
秋の好日に初雪の連峰が映える

2018年10月 富良野線 上富良野
旭川駅から富良野線に乗ると、上富良野町、中富良野町を通って、富良野市で根室本線の富良野駅に到着する。さらに、根室本線を東進すると災害休止となっている幾寅駅が玄関駅の南富良野町がある。さて、この4つの富良野はどういう関係にあるのだろうか。前々から興味があったが、つい後回しになってきてしまった。やっと、その成り立ちを知ることができたが、ちょっと想像していたのとは違う事実があった。まず、富良野とは何処を指すのか。富良野盆地に広がる一帯を指すようだが、そのアイヌ語の語源は、臭いのある処という意味の「フーラヌイ」と言われている。ラベンダーの香ならぬ、十勝岳の硫黄臭がこの地の語源のようだ。考古学的に富良野はアイヌ文化によって縄文時代から栄えていたことが検証されている。
倭人の入植は、1896年に富良野原野殖民地区画が設定され、1897年に富良野地区への入植が始まり富良野村が設立された。主に開拓は美瑛に続く北部から南部へと進められたため、当時の富良野村では、北部が上富良野、南部が下富良野と称された。1899年には鉄道が美瑛-上富良野間に開通し、翌年には下富良野まで延伸されている。1903年には、下富良野が分割され下富良野村となり、富良野村は上富良野村となった。その下富良野村からは1908年に南富良野村が分割され、1917年には上富良野村から中富良野村が分割された。この時点で現在の4つの富良野に分割された。一番早く町制が施行されたのが人口の最も多い下富良野村で、1919年に富良野町を名乗った。その後、上、中、南の順に町制が施行されている。富良野町はさらに周辺町村を合併して、1966年に市制が施行され富良野市になっている。
現在の4つの富良野のおよその人口は、上、中、市、南の順に、1万、5千、2万、2千5百だ。面白いことに南、中、上、市の順に倍々になっている。こうして生まれた4つの富良野だが、何れも農業と観光を主産業としているため結びつきは強い。4つの富良野に美瑛町、占冠村を加えて「富良野・美瑛観光圏」を形成し、JAも4つの富良野に占冠村を加えた「JAふらの」が設立されている。何れも富良野村に起源をもつ富良野の市町だが、産業的には逆に結びつきを深めている。北海道の代表的な観光地域で、移住政策も積極的に推し進めているが、残念ながら、それでも若い働き手の流失は止まっていない。こあらまも、生活が一変する東山・美瑛・富良野辺りへの移住を考えたこともあるが、軟弱にも首都圏に留まってしまった。もっともっと自由な発想で居住地を考えられる環境と発想が整えば、富良野の人口減少にも歯止めが掛かるかもしれないが、なかなかそうはならないのが世の常だ。
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- 2019/10/20(日) 00:00:00|
- 富良野線
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美瑛の丘の中に小さな駅がある
その地名に込められた思いとは

2017年10月 富良野線 美馬牛
「美馬牛」と云う駅名も、ちょっと旅心を擽るものがある。北海道のこの手の地名は、アイヌ語の当て字と分と分かっていても、表意文字である漢字からは自ずとイメージが湧いてくる。この駅は北海道上川郡美瑛町美馬牛にある。『ピパウシイ(カラス貝の多い川)』というアイヌ語が美馬牛の語源とされる。近年の東南アジアからの美瑛観光客の増加で、この駅に立ち寄る外国人が増えているという。
現役蒸気の頃は、富良野線にはキューロクが走っていたが、残念なことに訪れたことはない。こあらまの美瑛との付き合いは、蒸気全廃後の1977年頃から始まる。美瑛の丘を撮影するためだ。当時は観光地化する前で情報が少なく、国土地理院の地図で地形を想像しながら歩き回っていた。丘の斜面の畑はもっともっと傾斜がきつかったように記憶している。トラクターが斜面を這い回っていた。
そんな撮影行でよく利用したのが美馬牛だった。現在の駅舎は赤屋根の可愛らしいサイズになっているが、当時は有人駅だったのでもっと大きかった。現在の駅舎の左側には駅事務室があったはずで、その部分を減築しサイディングで覆ったのが現行駅舎ではないかと思われる。赤い屋根の向こうには初雪で真っ白になった十勝連峰が連なる。紅葉も相まって何とも美しいコントラストを描いていた。

2018年10月 美馬牛での列車交換
列車交換で上下の列車が少々停車するが、下車する乗客はいなかった。ただし、観光客と思われる乗客が、停車時間を利用してホームを歩き回ったり駅舎を覗いたりと一時の賑わいがあった。十勝連邦を臨む美馬牛と云う駅名は、観光客にも何か感じさせるものがあるようだ。
観光地化後は立ち寄ることのなくなった美瑛の丘だが、富良野線撮影の折に一巡してみた。とにかく目にするのは中国人観光客だ。畑のあちこちに立入禁止の立て札があるが、お構いなしに記念撮影に興じている。日本人も同じようなもので、農家のおじさんとの大喧嘩にも遭遇した。今、北海道の畑作地帯では観光客の立入が大きな懸案事項だ。大規模な単作では病原体や害虫の侵入が命取りになる。

2018年10月 白金の青い池
こちらは日本人に只今人気上昇中の美瑛白金の青い池。実はこの池は自然のものではなく、十勝岳の火山泥流を防ぐために美瑛川に造られた堰堤に水が溜まったものだ。この池を最初に世に知らしめたのは、上富良野のプロカメラマンの高橋真澄氏が1998年に出版した写真集とされる。青く見える理由は、日光が差し込んだ際の水酸化アルミニウなどの白色コロイドの光学的な作用による。立ち枯れているのはカラマツ、シラカバなどで、いつかは朽ち果てる運命にある。
またそのうち富良野線には寄ろうと思うが、こあらま的には美瑛の丘は最早現役蒸気と同じ過去の思い出だ。
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- 2019/09/08(日) 00:00:00|
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夕方になって、籾殻焼きの白煙が流れ出した
田園の晩秋を思わせる風景と匂いに包まれた

2018年10月 富良野線 西中
富良野盆地の中富良野、上富良野には豊かな田園が広がる。この田圃は、1926年5月24日に起きた十勝岳の噴火災害に遭っている。噴火の高熱で解けた残雪が、泥流となって富良野原野を襲った。開墾された田圃は一瞬にして埋まってしまったが、入植者の不屈の復興作業によって緑を取り戻している。その田園地帯は稲刈りも終わって、茶色の刈田が広がっていた。日が西に傾いて来た頃、あちらこちらから籾殻焼きの煙が上がりだし、盆地は白煙とその匂いに包まれた。日が幌内山地の山入端に隠れると、空には淡い茜が広がり、如何にも秋を感じさせる夕暮れ時となった。間もなく、十勝岳の高嶺から厳しい白い冬が降りてくる。そんな季節の分れ目の穏やかな一日が終わろうとしていた。富良野線の気動車は、平坦な田園を軽快に走り抜ける。そして、晩秋の白煙の中へと消えて行った。
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- 2018/12/05(水) 00:00:00|
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上富良野の丘に美しい秋の田園風景が広がる
十勝岳連峰の高嶺から冬の足音が近づいてきた

2017年10月 富良野線 上富良野
先日の9月6日の北海道胆振地震では、厚真町で大規模な土砂崩れが発生して、不幸にも多くの人命が奪われてしまった。幸い、こあらまの道内各地の親戚には大きな被害はなかった。しかし、全道で大停電となり、道民全体が不自由な生活を強いられ、今も十分な電力を得られていない。函館に住む義母に電話が繋がったのは、地震発生から3日目のことだった。発生の日の朝に、義母の近所に暮らす叔母とメールで連絡がついていたので、元気にしていることは判っていたが、二晩を懐中電灯と蝋燭で過ごし、電気の有難味を思い知らされたようだ。この大停電が真冬に起きていたら、この程度の混乱では済まなかっただろう。多くの暖房器具は電気制御であり、相当に寒い目に遭っていたはずだ。しかし、苫東厚真発電所の全面復旧は11月以降にずれ込む模様で、内地からの送電も含めて、電力源の模索が今暫く続きそうだ。
写真は、昨年10月半ばの十勝岳連峰だ。今年は大雪山系黒岳では早くも8月に初積雪が記録されている。もうひと月もすれば、北海道では平地でも雪が舞い始める。北海道の電力需要のピークは、最も寒さが厳しい2月だ。東日本大震災の影響で、泊原発が停止して以来、毎冬の電力の需給バランスがひっ迫しているが、この冬はさらに先が見通せない状況に陥っている。今日は、始めて節電目標の20%を達成したとのニュースがあった。さすがに、計画停電は御免だということだろう。ふと、東日本大震災後の計画停電の際、小田急が計画的に区間運休し、電車が走っていた相模川の川向うへと、歩いて橋を渡る人の列ができたことを思い出した。さながら、難民の行列のようだった。自然の猛威の前には、便利で快適な生活など砂上の楼閣だ。何時サバイバルが求められるかもしれない。何時生きる力が試されるやもしれない。
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- 2018/09/12(水) 00:00:00|
- 富良野線
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