キューロクで懐かしい多久や厳木の駅
今も国鉄時代の古い木造駅舎が居残る

2017年4月 唐津線 厳木
時は流れて、唐津線のキューロクは、こんな黄色のキハになってしまった。
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- 2020/04/24(金) 00:00:00|
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夕靄の菜の花街道を九州のヨンマルが往く
雨降り続きの春の一日が暮れようとしていた

2017年4月 唐津線 東多久
今日から10連休という方も多く居られることだろう。昨日は銀行ATMが混雑して、現金が底を尽いてしまった支店もあったとのこと。長い連休を前にして、まずは先立つものということだろう。海外旅行はかなりの盛況のようで、国内各地の観光地も皮算用に余念がない。JR各社の指定席の売れ行きもまずまずらしい。ただし、70%の方々は家でのんびりしたいというから、休みが長くなれば、その分景気を押し上げるという政治的思惑が、必ずしも通用しなくなってきている。そもそも、休みには物見遊山という発想自体が、前時代的になりつつある。従来型の土産物屋やドライブインに廃屋が目立つのも時代の流れだ。
写真の年の九州の春は菜種梅雨の様相だった。旅程の半分以上が雨だったような気がする。雨降りの車中泊はあまりいいものではない。家なら閉じこもっていればいいが、車生活ではそうはいかない。朝夕だけでも止んでくれることを願って旅していた。この日も、どんよりした雨模様の一日が暮れようとしていた。どういうわけか、九州では線路端によく菜の花が咲いている。そんな菜の花街道を九州のヨンマルがやって来た。貫通扉の窓から座席の並びが見えるが乗客は少なさそうだ。桜祭りのライトアップは、春の季節の日本の風物詩のようになっているが、キハのヘッドライトに照らし出された菜の花もまた乙なものだ。
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- 2019/04/27(土) 00:00:00|
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多久の大築堤は、あの日と同じようにそこにあった
木製の電柱が加わったが、雰囲気は変わらぬままだ

2017年4月 唐津線 多久

1971年7月 同所
今春の九州の旅では、主に現役蒸気機関車の時代に訪れた撮影名所を巡礼して廻ったが、何も所謂「今昔物」を撮ろうと思ったわけではない。あの場所の半世紀後の姿を見たかったのは確かだが、かつての名所は今でも名所で在り続けているかもしれない。今の姿を、今の機材で、もう一度撮ってみたいというのが、巡礼の一番の目的だ。そこには、もう蒸気機関車は走っていないが、そんなことはどうでもいいことだ。その土地の今の在り様に接し、今の姿を捉えることのみだ。そこに、少しばかりの過日の面影でも残っていれば、それで十分だ。
今回は唐津線の多久の話だ。多久と厳木の間には、唐津湾と有明湾の分水嶺である笹原峠がある。「ささばる」と読む。現役蒸気の頃は、キューロクの客レが走っていたことで人気を博し、石炭列車には後補機が付くものがあり、こちらも見所だった。当時は、多久駅から笹原トンネルまでの「多久の大築堤」周辺をうろつくのが初心者の常道だったように記憶している。今回も半世紀前に倣って、その築堤でポイント探しをしたが、その昔、何所でどう撮ったかなどという記憶は殆ど残っていない。気の向くままに撮影をして多久を後にした。
後日、写真をチェックしていて、何となく昔見たような眺めがあることに気が付いた。そこで過去画を探ってみると、やはりあった。門デフ、化粧煙突のキューロクが多い唐津線にあって、デフなし、パイプ煙突とかなり無粋な罐だが、同じ背景の写真に間違えない。荷が軽いのかスカ状態で登ってきたが、ドレインサービスに救われた一枚だ。期せずして同じ場所の同じアングルに行き着くところをみると、進化がなかったということだろうか。偶然か必然か、今昔物と相成った。そして、列車はあの日と同じように笹原トンネルに消えていった。

複線用の笹原トンネル 九州の炭鉱線に特有の構造だが、草木に覆われてしまっている
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- 2017/05/23(火) 00:30:00|
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夕日の向こうからキューロクの単機回送が下りてきた
今日の任務を終えて塒の西唐津に帰る穏やかな時間だ

1971年7月 唐津線 中多久
先日のキューロクの日には、唐津線の石炭列車をアップしたが、その際に唐津線の画をもう一枚用意していた。同じ場所で、反対方向から来る単機回送を狙ったものだ。その時の記事にも書いたが、唐津線の多久越えでは一部列車に後補機が付いていた。そんな路線では単機回送がしばしば見られた。ただ、絶気で坂を下りてくるのが恒例であり、あまり画になる存在ではなかった。この日は、珍しく薄い煙を吐きながら坂を下りてきた。夕日の向こうに浮かんだキューロクの丸い姿は哀愁を帯びていた。多分、補機仕業を終えて西唐津の塒に帰る途中だろう。何とも穏やかな一日の終わりだった。右の方のネガの擦り傷が少々消し切れていないが、その辺はご勘弁を。
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- 2016/09/24(土) 00:30:00|
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キューロクと炭鉱は切っても切れない仲だ
唐津炭田にもやはりキューロクの石炭列車の姿があった

1971年7月 唐津線 東多久
何とも絵に描いたような鉄ちゃん写真だが、正直キューロクがカッコいい。車両目的の正面引き付け画は、普段アップすることは殆どないが、探してみると使い物になりそうなのは結構少ないものだ。ピントが来てなかったり、罐が美しくなかったりと、難があるものが多い。そういう意味では、この画は小生的には真面な部類だ。夕日を浴びた門デフ、化粧煙突の九州西唐津のキューロクは実に美しい。牽いているのもセキの石炭列車で如何にも唐津線といったところだ。黒煙も夏らしい眺めになっている。ただし、この立ち位置は国鉄時代だから許されたもので、今では完全にレッドカードであることをお忘れなく。キューロクの日ということで、罐のポートレートにしてみたが、たまにはこんなのもいいもんだ。キューロクの日に感謝しよう。
画の唐津線にも少々触れておこう。唐津線の前身は唐津興業鉄道で、唐津炭田の住友杵島、明治佐賀、三菱古賀山といった多久一帯の石炭を、唐津港に運搬するために1898年に建設が開始された。そのため、この路線は唐津側から多久方面へと伸びていった。九州鉄道と合併後の1907年に官営となり、国鉄、JR九州と引き継がれ現在に至っている。現役蒸気の時代には、西唐津機関区にキューロクが配備され、後補機が付く多久-厳木間の多久越えに多くのファンが詰めかけた。当時珍しかったキューロクの客レの人気も高かった。その後の相次ぐ閉山で多久市の人口は減少したが、工場誘致や農業振興で、現在も21,000人程の人口を維持している。この辺りが北海道とは違うところだ。唐津線も毎時1本程度が運行され、決して廃線が噂されるような閑散ローカル線ではない。
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- 2016/09/06(火) 00:30:00|
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