背景の山にやっと日が入って来た
朝の川の冷気と湿気に白煙が棚引く

1971年7月 高森線 立野
この旧国鉄高森線の第一白川橋梁については何の説明も要らないだろう。あまりにも有名な撮影スポットだったので、只々懐かしいというほかない。この時は戸下温泉の碧翠楼に泊まって、始発からにこの場所に立った。川音で列車の走行音は全く聞こえず、通過予定時刻が近づくと、ひたすらレリーズを握って橋梁を凝視することに集中した。
1970年に阿蘇大橋が開通するまで、南郷へ向かうには戸下温泉、栃木温泉を経由する旧道が唯一のルートだった。文化人も多く訪れ、隆盛を極めた歴史ある戸下温泉も、大橋の開通により衰退が始まった。そこに立野ダム建設の計画が持ち上がり、1984年にダム損失補償交渉が妥結調印されるや否や、碧翠楼は跡形なく姿を消してしまった。
しかし、立野ダムは1983年に事業はスタートしたが、未だに本体工事に着工していない。何故か工事が凍結された状態が続いている。一方、2016年の熊本地震では、阿蘇大橋は崩落、第一白川橋梁は崩落は免れたが大きな損傷を負ってしまった。どちらも国の予算での復旧工事が始まっている。白川橋梁はアーチ部分を架け替える計画だ。
ところが、市民団体によると、立野ダムが着工されると南阿蘇鉄道の付替えが必要になるという。昨年突然に、国土交通省はダム本体工事の起工式を行った。その総事業費は917億円とのこと。こちらも国交省が支援する、予算40億円の現在進行中の南阿蘇鉄道の白川橋梁復旧工事に影響はないのだろうか。何とも不安が拭えないお役所仕事だ。
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- 2019/10/28(月) 00:00:00|
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トンネルを抜けると再び白川に出会う
外輪山越えにC12の混合列車が喘ぐ

1973年8月 高森線 長陽
豊肥本線の立野は外輪山が唯一口を開いた場所だ。豊肥本線はスイッチバックによってカルデラ内の赤水へと向かう。一方、立野で分岐して高森に向かう高森線はというと、白川に沿ってカルデラ内へと進む。立野を出た列車は、白川支流の橋梁を二本渡ると短いトンネルに入る。この隧道を抜けたところが、高森線随一の撮影名所の第一白川橋梁となる。今無き戸下温泉の河原で、C12の混合列車を固唾をのんで待ったものだ。何時だったか、白川橋梁を歩いて渡る人を目撃したことがある。鍬を担いだ3人が橋梁を渡り、その先のトンネルに消えて行った。立野の集落から歩いて来たようだが、トンネルの先に畑でもあるのだろうか。
そのトンネルの出口が見たくて、歩きが短かそうな長陽側からアプローチしてみた。今思えば、立野から線路を歩いてみればよかった。白川橋梁からの眺めはどんなだっただろうか。トンネルは900m程だがほぼ直線なので問題はなかったはずだ。何より、今ではご法度なのでリベンジすることもできない。そのトンネルの出口は意外にも白川沿いだった。白川は尾根を大きく迂回しているが、落差が大きく、途中には鮎返ノ滝がある。さて、畑はというと、写真の上端に小さな畑が写っている。そんな畑が点在していたが何の畑なのだろうか。それにしても凄い斜面を開墾したものだ。日本の人口が増えていた時代の土地への執念を感じる。
南阿蘇鉄道では、2022年の全面復旧を目指して、2018年3月に立野-中松間の復旧工事に着手している。70億円とされる復旧費の97.8%を実質的に国が負担する。何らかの政治的忖度があったかは定かでないが、運よく復旧する路線と無視されて消え去る路線、その根拠はやはり何も見えてこない。一方、豊肥線は一足早い2020年の復旧見通しが報道されている。
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- 2019/04/25(木) 00:00:00|
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乗客の人影が見えない気動車が静々と現れた
僅かな距離の移動が日課となって久しい

2017年4月 南阿蘇鉄道高森線
関東甲信越地方も、ここ数日は梅雨らしい空模様になった。この「梅雨」の語源については諸説紛々だ。この二文字だけなら「つゆ」と言うところだが、梅雨前線となると「ばいう」だ。二つの読み方が、平行線を辿っているのも、複雑な語源説の表れだ。さて、今回の写真に降る雨は「桜雨」だ。こちらは、読んで字のごとくで、何も考えることはない。本当に美しい日本語だ。ただただ、「さくらあめ」に思いを馳せればいい。その桜雨に濡れながら走る気動車は、乗客を運ぶためではなく、主に、施設と車両、そして職員のモチベーションを維持するために走っている。支援を決めたのならば、早く策を纏めて救ってやって欲しい。そうしないと、今が盛りの「黴雨」の季節にカビてしまうかもしれない。
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- 2017/06/28(水) 00:30:00|
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阿蘇を抱える「火の国」熊本は、「水の国」でもある
出水で断念を余儀なくされたトンネルは、今や「水の国」の象徴の一つだ

1973年8月 高森線
高森線は豊肥本線の立野から外輪地域を走り高森町に至る17.7kmの盲腸線だ。当初計画では高千穂を経由して延岡に通ずるはずであったが、宮崎県境のトンネル掘削の出水で工事が中断し、そのままとなってしまった。その2,055mの高森トンネルは、現在高森湧水公園として阿蘇観光の一つになっている。トンネル内には遊歩道も整備され、毎分32トンの湧水を楽しむことができる。この地域は水の豊かな場所として有名であるが、奇しくも、通じることのなかった出水トンネルが、水の観光資源になろうとは皮肉なものだ。
阿蘇の山並みを仰ぎ見る風光明媚な地域であり、九州では湯之前線のハチロクとともに最後まで蒸気が残っていたため、多くの同好の士の記憶に残る名路線だ。高森線と言えば、立野-長陽間の二つの橋梁が有名だが、国鉄初のアーチ橋の方が、第一白川橋梁で、トレッスル橋の方が立野橋梁でいいのだろうか。トレッスル橋を第一白川、アーチ橋を第二白川としているものも多くあり、何方か正確なところをご教示頂けないものだろうか。かつて、一度だけ泊まったことのあるアーチ橋の谷底にある戸下温泉の碧翠楼は廃業してしまったそうだが、あの場所には今もいけるのだろうか。
高森線のC12は下りが逆向きで、上りが正面だ。ということは、この画の背景は外輪山ということになる。機関車のすぐ後は貨車だが、その後ろには客車がぶら下がっている。キャブには何やら4名の国鉄マンが乗っている。機関士と機関助士に加え、もう一人のナッパ服と車掌と思われる乗務員。何とも不思議な取り合わせだ。小さな罐だが、キャブ内がそれ程窮屈そうには見えないのも不思議だ。阿蘇山と外輪山に挟まれた草地帯を、長閑に往くC12の混合列車の姿は、何時までも語り継がれていくことであろう。
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- 2016/04/04(月) 01:15:57|
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