オホーツクの早春はまだ深い雪の中だ
ロシアの町の名が何時しか日本語になった

1975年4月 天北線 浜頓別
「オホーツク」と聞けば、日本人であれば、北海道のオホーツク海とその沿岸地域を連想するだろう。しかし、この名はもちろん元々は極東ロシアのハバロフスク地方の町の名で、この地方で最も古い町のひとつとされている。1647年に、カムチャッカ、千島、樺太、日本、アラスカなどへの東方探索のためのコサックの越冬地になったのがこの町の始まりとされている。オホーツク(OXO’TCK)という地名は、「狩猟」というロシア語からきている。その後の時代の流れで、極東ロシアの中心地はハバロフスクやウラジオストクへと移っていくことになる。
さて、鉄道界にオホーツクの名が登場したのは、1959年に運行が開始された、旭川-網走間の準急「オホーツク」ではないだろうか。1956年には戦後処理の「日ソ共同宣言」が発効し、両国の国交が回復している。それにしても、親方日の丸の国鉄がロシア語の列車名を採用するとは驚いたものだ。当時、国交回復の祝賀ムードがあったのかもしれない。しかし、1960年には、第二次岸信行内閣が行った安保条約改定にソ連が反発し、共同宣言に謳われた歯舞・色丹の返還なども帳消しとなった。再び日ソ首脳会談が再開されるのは田中角栄の時代だった。
日本に大きな影響を与えたのは、その町の名から命名された「オホーツク海」の存在だろう。日本の北洋漁業にとって重要な場所で、気象学的にも注目される海域になっているので、「オホーツク海」という言葉の露出度は高く、日本人の日常生活の中にも、徐々に浸透していったのだろう。特に、北海道オホーツク海沿岸に押し寄せる流氷は、地域の冬の貴重な観光資源となっているばかりではなく、流氷のイメージは、海産物のイメージアップにも繋がっている。「オホーツクの流氷が育んだ北の幸」とか言われると、ついついというのがその効果だろう。
北海道は余りにも広大な場所のため、1897年に郡役所の代わりに、渡島、桧山、胆振、日高、空知、石狩、後志、上川、留萌、宗谷、網走、十勝、釧路、根室の14の支庁が置かれた。2010年には振興局に再編され、9つの総合振興局と5つの振興局となった。何れもが地方自治法の支庁の機能を維持しているので、再編の目的が達成されたかは甚だ疑問だが、何れにしても、支庁時代と同じ名称をもった振興局が誕生した。そのなかで、唯一名称を変えたのが「網走支庁」だ。何とロシアの町の名を採った「オホーツク総合振興局」になってしまったのだ。
この経緯がまた面白い。この地域は古来「北見国」と呼ばれた。つまり、中心地はあくまで「北見」で、「北見」が「網走」から支庁の座を奪還しようとした。しかし、先立つものもなく、支庁舎を移転させることも出来ない。そこで、周辺の町村が仲裁に入った。いっそのこと「北見」でも「網走」でもなく、思い切って、イメージが定着してきた「オホーツク」にするという案が飛び出した。その旗振り役は、過疎化の進展が停まらない北見のお隣の置戸町だったようだ。網走の抵抗もなく、すんなり「オホーツク」の名を持つ行政組織が日本に誕生することになった。
ロシアの町の名が海の名になり、その海の名が日本の地域のイメージとなる。そして、その名を採った行政区まで生まれた。オホーツク紋別空港、JA 何だらオホーツク、オホーツクドーム、日本野鳥の会オホーツク支部、東京農大オホーツクキャンパス、オホーツクカントリークラブ、ドコモショップ オホーツク支店・・・・・。もう「オホーツク」は立派な日本の地方名だ。
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- 2019/03/16(土) 00:00:00|
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4月に入り日の光が眩しくなってきた
寒さ厳しき猿払の雪解けももうすぐだ

1973年4月 天北線 鬼志別
このところ、北海道地方では記録的な低温に見舞われている。史上最強クラスの寒波ということで、道北、道東エリアは、軒並みマイナス30℃以下が観測されている。その昔、旭川駅の徒歩圏に銭湯があった。宗谷線、石北線の夜行列車に乗る前に、何度かその銭湯に行ったことがある。帰りにタオルと髪の毛が凍ってバリバリになったことを覚えている。面白半分にタオルを振り回して凍らせたものだ。旭川ではマイナス20℃くらいは珍しくなかったと思うが、これは家庭用の冷蔵庫の冷凍室の温度になる。今はそんなことはないが、冬の北海道では、凍ると困るものを冷蔵庫にしまっていたというから、家の中も随分と寒かったということだ。
4月に入ったというのに、一面の雪原で、木々の冬芽も硬いままで、猿払の春はまだまだ先のようだ。今では、列車の運転士も、空調の効いた快適な職場で働けるようになったが、現役蒸気時代の機関士の職場環境は、特に劣悪だった。ボイラーから発せられる高熱と、極寒の風雪の中での身を乗り出しての前方確認。顔面神経痛の話もよく聞いた。しかし、C62重連でお馴染みのゴーグル姿の機関士の凛々しさは、機関車乗りの憧れの象徴でもあった。同じ寒さであっても、昔の方がより寒かったはずだ。色々なものが進化し、北の大地の冬の生活も随分と改善されている。ただ、冬の厳しさがあってこその北海道だと思うのは、こあらまだけだろうか。
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- 2019/02/10(日) 00:00:00|
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最北のキューロクがオホーツクの町々を巡る
早春の猿払を吹く風は、まだまだ冷たかった

1973年4月 天北線 鬼志別
天北線1791レが鬼志別に到着した。停車時間は30分程で、給水や火床整理などが行われる。機関車周りの雪が炭殻で汚れているのはそのせいだ。機関助士はテンダーに登り石炭を掻き寄せている。強風に暴れる煙と、機関士の被る目出し帽が、否応なしに北辺の雰囲気を醸し出す。最北の稚内機関区の受持ちは、宗谷本線北部、天北線、興浜北線の3路線だった。利尻の絶景を背景にC55の走る宗谷本線の陰で、天北線は地味な存在だったが、オホーツクの海岸に連なる町々は、宗谷本線とは異なる趣がある。この鬼志別は猿払村の中心駅で、急行「天北」の停車駅でもあった。
当時、音威子府・浜頓別間に区間貨物が1往復あったが、天北線全線を走り抜ける貨物列車は、1791レ・1792レの1往復のみで、浜頓別以北は撮影効率の頗る悪い場所だった。下りの1791レは、全線148.9kmを7時間程の時間を掛けて、貨物取扱駅の一つ一つに停車していくが、貨物も含めて上り列車との交換は6回あるが、追い抜いてゆく列車はない。つまり、この列車とのご対面は、どんなに頑張っても一日一回限りとなってしまう。今なら、追っかけで何度となく撮れそうなものだが、当時は30分の停車時間を利用して、駅の両側と停車風景を撮るのが精一杯だった。
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- 2017/11/23(木) 00:00:00|
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日が傾き、浜頓別から眺める珠文岳の頂が朱を帯びてきた
その山懐を目指して、チップを満載したキューロク貨物が登って往く

1975年3月 天北線 浜頓別
日本は山国のため、多くの地域に「故郷の山」と言えるような頂きがある。ここ浜頓別の故郷の山は珠文岳だろう。写真奥の右の頂だ。浜頓別の町中からは、何所からでも眺められる標高761mの山だが、さすがは宗谷の山だけあって、頂上付近にはハイマツ帯があり、ピークには遮るものは何もないとのことだ。ただ、過熱気味の昨今の登山ブームも、ここまではその熱は伝わってこないようで、山には登山道はなく、原始のままだという。
浜頓別は、宗谷地方枝幸郡にある漁業、酪農の町だ。町名の由来は、アイヌ語の「トー・ウン・ペッ」(湖から出る川)だが、その言葉のとおり、クッチャロ湖と湖からオホーツクに注ぐ川に挟まれた湿地帯に町がある。稚内への宗谷本線は、当初この浜頓別経由で建設されたが、後に距離が短い幌延経由の天塩線が延伸され宗谷本線となった。浜頓別経由は北見線という呼称を経て天北線と呼ばれるようになった。浜頓別廻りが先に造られたのは、オホーツク側の政治力の方が強かったためと言われている。
大分日が傾いてきた午後4時前、札幌からのキハ56の急行「天北」が浜頓別に到着し、鬼志別へと去って行った。入れ替わりにキューロクの貨物列車が音威子府を目指し、夕日に輝く珠文岳の麓の中頓別へと登って往く。当時の人口は6,800と現在の4,000より多かったが、小さい町には変わりはない。駅を出発した列車は直ぐに原野へと分け入ってゆくことになる。こうした原野を延々148.9kmも走る天北線は、国鉄最長の特定地方交通線だった。続く長距離路線の名寄本線、池北線とともに存続が検討されたが、1989年5月1日、敢え無く廃線となった。
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- 2016/03/13(日) 01:46:45|
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