野花南とは何とも柔らかい響きの地名だ
その名に相応しい穏やかな秋の日だった
2018年10月 根室本線 野花南
これまで、名前に引かれて訪ねた駅を幾つかご紹介してきたが、今回は「野花南」という名の駅だ。本題に入る前に、つい先日、野花南で発生した架道橋の破損事故についてお伝えしておこう。2019年11月21日午前5時ころに、国道を走るトレーラーの積荷の油圧ショベルが、交差する根室本線の架道橋に接触して、架道橋が損傷した。そのため、一時、芦別-東鹿越間が不通になり、バスによる代行運転が行われていた。これは新たな不通区間ということで、不通区間は芦別-新得間に広がったということだ。その後のJRの調査で、補修には3か月を要するとのことだ。富良野線経由で車両が送り込まれて、富良野-東鹿越間は列車運行を再開したが、芦別-富良野間は暫くはバス代行運転が続くようだ。補償の得られない自然災害でなかったのが不幸中の幸いだ。
さて、本題に行くが、野花南は芦別市野花南町にある根室本線の駅だ。例によってアイヌ語由来で、北海道環境生活部の資料によれば、「ノッカアン」(機弓の糸を置く所)、あるいは「ノカンナイ」(小さい・川)となっているが、確定レベルは何れも「C」で、説の一つと考えた方がいいだろう。野花南川や野花南岳も存在しているが、何れにせよ意味が忘れ去られた地名の一つだ。「糠南」と表記された時代もあったようだ。ちなみに糠南は宗谷本線の駅名にある。根室本線も芦別までは炭鉱の町が連なるが、ここからはガラッと様相が変わる。野花南は山間部の入口で、一時は林業で栄えたようだが、今は僅かな面影が残るのみだ。東隣の駅は富良野で駅間は19.4kmもある。以前は滝里、島の下の2駅が在ったが、滝里はダム建設に伴い廃止、島ノ下は信号場に降格している。
駅舎と駅前になるが、国鉄末期の1982年に無人化されている。JR北の統計では乗車人員は2.4人/日で、微妙な数字だ。数字の割に駅舎が大きいのは、過疎化が著しかったということだろうか。
駅舎前にはこんな碑が。開通が大正2年11月(1913年)とあるが、野花南町開基百年事業修復というのは何なんだろうか。現在の駅舎は、この事業で平成8年(1996年)に建て替えられたということか。
駅前に林業に関係する建屋を見つける。屋根には垂直偏波の地デジアンテナ、電灯線も電話線も繋がっている。なかなか微妙な建物だ。2階の看板は「国有林入林心得」、1階のは「野花南町防犯委員会」と「町内会」。どう見ても民家ではない。林業関係者の詰所のようなものだったと想像できる。冒頭の写真の左側にあるのはチップ工場のチップ積み込み用のホッパーになる。貨車用ならいいのだが、残念ながらトラック用だ。この工場はどうやら操業中のようだ。どちらも、この町が林業の町であったことの証だ。
名前に引かれて訪れた野花南だが、その名からイメージしていたものの一端は見たような気もする。野花南の明るく穏やかな秋の日だった。これから始まる険しい山岳ルートを前にした一服の野の花を連想することのできる土地柄だった。この土地が、野の花だけの場所になってしまわないことを祈りたい。
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2019/12/13(金) 00:00:00 |
根室本線
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晩秋の湿原が朝日に目覚めた
大型機を拒むか細い鉄路が伸びる
2018年10月 根室本線 厚岸
道東を往く根室本線、石北本線そして釧網本線では、こんな湿原の軟弱路盤を行くことになる。どうして春先に線路が沈まないのか不思議なくらいだが、それなりの土木技術を駆使した結果ではある。現代の車輛は軽さが売りのため、軸重云々が問題になることは殆どない。しかし、蒸気機関車の時代はそうはいかなかった。巨大な鉄の塊に水と石炭を満載して走るわけで、重量は気動車や電車の比ではなかった。それぞれの路線で耐えられる機関車の軸重が厳しく定められ、それに見合った車両形式が充当されていた。
湿原を行くこれらの路線では、力のあるD51の入線は叶わず、少々パワーは劣るが旅客も貨物も無難に熟せる中型万能機のC58の独壇場だった。そのD51とC58の縄張りの境目にある拠点機関区の釧路と北見は、数多くのC58で溢れていた。夜行寝台の「狩勝」や「大雪」の客車や荷物・郵便車は、最後はC58に牽かれて終着の根室や網走を目指した。今や普段は単行しか見掛けないこの線区にも、かつてはC58が客レと貨物を牽いていた。平坦区間で煙は期待できなかったが、湿原の湿気のせいか何時も白煙を棚引かせていた。
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2019/11/29(金) 00:00:00 |
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突然のやませに海は鉛色に沈んだ
雨も落ちだしていよいよ釧路日和だ
2018年10月 根室本線 音別
果して何ミリまで望遠撮影を手持ちでこなせるか。なかなか難しいところだ。現代のデジタル技術と高画質をもってすれば、どこまででも行けそうだが、画質を考えるとそうも行かない。この写真では換算1000mmは優に超えているが手持ちだ。足場が悪く、やっとのことで撮っているので、超高足三脚でもない限り手持ちは避けられない。そのため、レタッチでカバーはしているものの、少々画質に問題があることは否めない。時代物になりつつある純正単焦点に、飛び道具などを使って焦点距離を稼いでいるが、そろそろグレードアップを図りたいところだ。野生動物も撮るこあらまとしては、手持ちで行けるに越したことはない。超望遠には価格と重さという二つの壁が立ち塞がる。
ニコン派としては超望遠といえば大砲レンズが気になるところだが、野鳥撮影の方々の話を総合すると、どうやらサンニッパは余程の根性なしでなければ手持ち可能、鍛錬を積んだ強者ならロクヨンまでなら短時間なら手持ちで追尾可能のようだ。一方、最近のレンズの小型化、軽量化はなかなかのものだ。昨年発売の「AF-S NIKKOR 500mm f5.6E PF ED VR」 は約1460gとフレコミ通り誰でも手持ちで撮れる軽さだ。ズームとサードパーティーに根強い不信を抱くこあらまとしては、純正単焦点の長球で補強したいところだが、これがレンズ沼に嵌る第一歩であることは諸先輩の足跡から明らかだ。今のところ先立つものがないのでその心配はないが、何れはと目論む今日この頃だ。
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2019/11/11(月) 00:00:00 |
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特急「おおぞら」が池田に着いた
丘の上からワイン城がお見送りだ
2018年10月 根室本線 池田
もう何十年も前の話だが、北海道の親戚から池田町の「町民還元ワイン」を何度かもらったことがある。日本にまだまだワイン文化が根付く前の時代の話で、甘ったるいだけの代物だった。そのワインの出どころが、ここ池田町の通称「ワイン城」だ。正式には「池田町ブドウ・ブドウ酒研究所」という。日本初の公営ワイナリーで、1963年に産声を上げている。町営といっても独立採算制を採っており、きっちり利益を上げ、町の経済や財政に大きな貢献をしているのが凄いところだ。事の発端は、1952年の十勝沖地震と時期を同じくして発生した冷害からの復興策の一つだった。
ちなみに、こあらま的にはワインはやっぱり甲州だ。大いに手前味噌となるが、日本のワインを一歩も二歩もリードしてきたのは山梨ワインだ。そして、甲州は世界的なブランドとして定着した。どこの酒屋に行っても、ワインの一升瓶がド~ンと並んでいるのは山梨くらいのものだ。そのどれもが、それなりの質になっているから、日本のワインも進化したものだ。今や甘ったるいだけの駆け出しの和製ワインはもう昔話だ。ワイン城の進化ぶりを確かめるためもあってここに寄ったが、池田のワインは地元種のヤマブドウを用いた独自の路線で、甲州とはまた違った進化を遂げていた。
さて、鉄道の話に移ろう。ワイン城は根室本線池田駅の繁華街とは反対側のすぐ傍の丘の上に建つ。つまり、ワイン城からは十勝の平原と池田の町並みをバックに、池田駅の全景を眺められるという寸法だ。これが二つ目の立ち寄り理由。ついでに、もう一つ余談を。「DREAMS COME TRUE」の吉田美和はここ池田町の出身で、ワイン城でもコンサートを開いている。2005年には物産館が「DCTgarden IKEDA」という名のドリカムのギャラリーに変身した。さらに2009年には「DREAMS COME TRUE VINEYARD」という葡萄園まで出現した。ちょっと路線が違うような気もするが気のせいか。
その昔、この駅からは池北線が分岐していた。現役蒸気の時代には、早朝の広尾線を撮って、すぐに池北線に転戦ということをよくやっていた。帯広と北見を結ぶ急行「ちほく」もよく利用した。今では面影も無くなってしまったが、池田には1985年まで機関区があり転車台などもあった。池北線は1989年に北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線に転換されたが、17年後の2006年に廃止となってしまった。そうそう、池北線の足寄は松山千春の出身地だ。彼のお蔭で一時期足寄も有名になった。やはり、有名人が出るということは地元にとっては有難いことだ。出身地との強い絆が日本文化の一つなのだろう。
ここからは、マイクロフォーサーズによるワイン城を少々。
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2019/11/07(木) 00:00:00 |
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かつての狩勝の要衝が草に埋もれる
往年の本線を伝える構内が錆びていく
2018年10月 根室本線 落合
こあらまが蒸気機関車を撮り始めた頃には、既に狩勝峠は無煙化されていた。更には新線に切り替えられ、鉄道三大車窓の峠道も過去のものになっていた。北海道内最難関とされる狩勝峠の乗務員は、過酷な職場環境を強いられ、労働争議も起きていた。そのため、新製間もないDD51が道内で真っ先に導入され、早々と無煙化となった。伝説の狩勝峠の大パノラマは諸先輩方の力作を拝むしかなかった。
狩勝峠に挑む列車をサポートする補機のため、上川側に落合機関庫が、十勝側に新得機関区が置かれていた。峠の狩勝トンネルの出入り口には、煙から乗務員を守るため、開閉式の幕が設置され、幕の開閉のための係員が常駐していた。その狩勝峠の上川側の要衝である落合が今回の話題だ。峠越えは三大車窓の十勝側が25‰ときつく、新得機関区の罐が補機として峠のシェルパの大任を担っていた。
上川側の落合は南富良野町東端の山間部にある。はじめから機関庫を置くことが前提で設置された駅で、周辺に大きな集落があるわけではなく、あくまで狩勝峠越えのための鉄道施設としての性格が強い。その落合は現在休止中だ。2016年の台風10号の土砂災害で、根室本線の東鹿越-新得間は不通が続いており、このまま廃線の可能性が高い。かつての狩勝峠の要衝は草に埋もれて眠りについている。
幾寅方面を臨む。廃止になったわけではないので設備は全て温存されている。しかし、災害復旧のための工事は何らされておらず、手付かずのままで不通が3年以上続いている。レールの存在はまだ失われておらず、何とも痛々しい状況だ。
この駅は1981年の石勝線の開通で大きく衰退した。優等列車と貨物列車は全て石勝線経由となり、本線筋のこちらの定期列車は普通のみとなった。もし、石勝線が開通していなかったら、逸早く復旧していただろうが、ローカル線化した現在では叶わないことなのか。
新得側からの構内の眺めになる。草に覆われてはいるが、まだまだ構内の線形は見て取れる。駅の右手に機関庫があったようで広いスペースが空いている。単車の気動車には立派過ぎる構内からは、賑やかだった往年の根室本線が思い出される。
最後に新得側。左に向かうのが旧線だったところで、この直ぐ先でレールは途切れている。旧線は狩勝信号場、新内を通って新得に向かっていた。右のトンネルが1966年に開通した新線で、幾つかの短いトンネルを抜け、石勝線と合流して、新狩勝トンネルに入る。上落合、新狩勝、広内、西新得の4つの信号場を経由して新得に至る。
時代の流れと云うのは容赦ない。かつての狩勝峠の要衝も、バイパス線の開通と台風災害で追い詰められてしまった。これも時代の趨勢と云うものだろう。生まれるものがあるからには、消え去るものも出てくる。狩勝峠の旧線に観光トロッコ列車でも走らせればと思ってみても、すでに鉄路は剥がされ痕跡もおぼつかなくなってきた。鉄道流行りの昨今、鉄道三大車窓となると、ちょっとした人気になったかもしれない。
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2019/10/08(火) 00:00:00 |
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