春色の線路端を掠めて春色のキハが往く
今年も間もなく花の季節がやって来る
2017年4月 豊肥本線 宮地
この春は、桜の開花がかなり早まりそうだ。その桜に合わせて撮影旅に出ようと思っていたが、運悪くあれやこれやと俗用が出来てしまい、どうにも花見の時期に間に合いそうもなくなってきた。昨年は、人の集まる桜の時期を避けて出発したつもりが、逆に見頃に当ってしまった。近寄れば離れていき、遠ざかれば寄って来る。何とも、女心と花見の時期を捕まえるのは難しい。花見といえば桜だが、梅や桃も登場する。どれも、パッと咲いてパッと散る潔さが日本人の感情に訴えるのか、変わらぬ春の風物詩だ。鉄道写真の世界でも春の定番の題材だ。何故か鉄道の周りには桜が多い。鉄道を通しての花見の季節ももうすぐだ。
宮地を波野に向けて出発した新潟鐵工所のキハ125は、大きく弧を描きながら東外輪山を登り、豊肥本線の最高地点である坂の上トンネルへと向かう。このトンネルの開通をもって、豊肥本線が全通している。一方、西の外輪山は立野のスイッチバックで越えているが、2016年4月の熊本地震で被災し、復旧の目処すら立っていない。そのため阿蘇のカルデラに繋がる鉄路はここだけになってしまっているものの、豊肥本線中飛びぬけて乗客が少ない区間であることに変わりはない。1日5往復の短い列車がこの分水嶺を越えているが、定期の優等列車も走らなくなり、レールに薄らと赤錆が浮いているのは、なんとも侘しいことだ。
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2018/03/20(火) 00:00:00 |
豊肥本線
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あの地震の日から住む人も通う列車も消えてしまった
カルデラに続くスイッチバックが蘇える日を待つ
1973年8月 豊肥本線 立野
一度でも訪れて、世話になったことのある町や村が、災害現場として報道されるのは、本当に悲しいことだ。今春は九州各地を巡り、久大線や日田彦山線の沿線にも何度となく立った。それが、7月の九州北部豪雨で大きな被害を受け、今も被災集落の再建の道程が続く。昨年の夏には北海道の根室線沿いを旅したが、その直後の台風災害で甚大な痛手を被り、根室線、石北線の復旧にはかなりの時間を要した。次々に襲い掛かる自然の猛威は留まるところを知らない。このところの被災路線で、廃線に追い込まれたケースがないのが不幸中の幸いだ。九州北部豪雨では、現在も不通が続く鉄道路線のことも気になるところだが、まずはそこに暮らす住民の方々が、平穏な生活を取り戻せることを切に願いたい。
そんな中、2016年の熊本地震で孤立してしまったのが、豊肥線沿線の344世帯の立野地域だ。その後の豪雨などもあり、避難指示や避難勧告が続き、住民の集落での生活は奪われたままだ。これまでも、度重なる災害を乗り越えてきた路線だが、この地震災害の爪痕はあまりにも大きい。先日、阿蘇長陽大橋の開通が報じられたが、周囲の風景は鉱山か温泉地獄のように荒涼としている。阿蘇へと抜ける豊肥線と並行する国道57号線は、大きくルートを変えて付け替えることになった。今回も、JR九州は豊肥線を復旧させる意気込みだが、全く目途は立っていない。まずは、肥後大津-立野間の復旧を目標にするとのことだ。南阿蘇鉄道も国での再建が決まっているが、立野の復旧無くしては意味が薄い。
立野駅は阿蘇外輪山を越える要衝の駅だ。唯一口を開けたカルデラ内へとスイッチバックが続く。駅自体も斜面にあるので、駅舎からは階段を下りてホームに向かうことになる。構内の中央には豊肥本線の長い島式ホームが陣取っているが、階段脇の狭い場所に、唯一の支線である高森線のホームがあった。ゼロキロポストは高森線の起点を表している。現在は、このホームに第三セクターとなった南阿蘇鉄道の駅本屋が建っているようだ。豊肥線の列車が到着し、立野で降りる人、高森線に乗り換える人、傍らでは手荷物や郵便物を扱う駅員氏の姿もある。時代背景は違へど、何時かまたこの駅に賑わいが戻り、カルデラ内へと向かう列車がスイッチバックするのを眺められる日が、再び来ることを祈りたい。
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2017/08/31(木) 00:30:00 |
豊肥本線
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立野にはスイッチバックや大白川橋梁などの鉄道名所が多い
その険しい地形が仇となって、今彼の地が危機に曝されている
1971年7月 豊肥本線 立野
このところ、ずっとキハが続いているので、ここらで煙分補給のため、オーソドックスな現役蒸気画をお送りしたい。豊肥本線は立野のスイッチバックだ。九州には、この立野の他に肥薩線の大畑と真幸にスイッチバックがあるが、やはり立野のものが群を抜いた規模だ。現役蒸気末期はキューロクの貨物列車がこの坂道を越えていた。その後は、ハチロクの「SLあそBOY」が独力で登っていたが、それが祟ったのか、大病をして、今は肥薩線川線で余生を送っている。最近は、「ななつ星 in 九州」のルートに加えられていた。
今回の熊本地震で、立野地区には大きな被害がでている。交通網の遮断により孤立してしまったために、村外への避難を余儀なくされている。豊肥本線は肥後大津-豊後萩間、南阿蘇鉄道高森線は全線で不通が続き、国道57号線、325号線は至る所で分断されているという。高森線は、あの立野橋梁、第一大白川橋梁も被災し、復旧には最低でも30億円が必要と見積もられている。高森線と結ばれるはずだった高千穂線(オールドファンにはC12の日之影線だろうか)を引き継いだ高千穂鉄道が、2005年の台風被害で廃線となってしまったことが思い出される。被害の大きさから、鉄道ばかりか、立野の集落自体が存亡の危機に立たされている。
さて、一枚目の画は、その国道57号線の陸橋から。立野に登って来るキューロク貨物を撮ったものだ。キューロクの煙の向こうに、微かにスイッチバックの折り返し地点が見える。この日は運よく、高森線のC12が、熊本からぶら下がりで有火回送されてきた。そのC12が、どういうわけか、先頭をゆくキューロクを思ってか、ファンサービスなのか、威勢よくプッシュしている。思わぬ力走プッシュブル運転と相成った。この列車は、立野でC12を切り離し、バック運転の推進でスイッチバックに入り、折り返して赤水に向かう。二枚目の画は、スイッチバック後に赤水に向かうシーンだ。ということで、1本の列車を3回撮れる美味しい場所だった。この数々の鉄道名所のある立野は、今後どうなってしまうのだろうか。被害が大きいだけに先行きが心配だ。
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2016/05/22(日) 00:32:06 |
豊肥本線
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車が少なかった時代、町を出るのも、帰ってくるのも駅からだ
町の玄関である駅には、その日もお見送りの人の姿があった
1973年8月 豊肥本線 肥後大津
高森線を撮り終えて、東京行きの急行「桜島」に乗るべく、立野から熊本行きの列車に乗った。立野から2つ目の肥後大津で交換となった。急行の表示がないので、「火の山」ではなさそうだ。
車中から乗り出して撮った一枚だが、とても懐かしい画となった。下見板張りの駅舎とハエタタキ、全盛時代のキハ58系、鉄板の蓋のあるホーム間の踏切、通過列車が無いのかホーム中央の渦巻き型のタブレット受器、どこを眺めても「国鉄時代」だ。
現在、豊肥本線は熊本-肥後大津間が電化されており、この駅で電車とディーゼルがそれぞれ折り返し運転を行っている。一日の乗降客が4000人近い立派な駅で、この頃の面影は殆どない。
しかし、一番目を引くのはやはりホーム上の人々だ。良く見えるようにトリミングしてみた。懐かしい制服の二人の駅員が下り列車の出発を見守っている。列車の乗降は終わっており、ホーム上の方々は見送りだ。どちらの列車にもお見送りがいる。何とも時代を思わせる服装の懐かしい光景だ。
ただ、今だって、お盆が終わるころ、子供と孫を見送る親の別れのシーンが、新幹線のホームで見られる。新幹線ホームの別れといえば、山下達郎のクリスマスイブ流れるコマーシャルシーンもあった。かなり古いが、転勤先に向かうサラリーマンの同僚のお見送りなんていうのもあった。
今も昔も、駅は変わることのない人との出会いと別れの場所だ。
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2015/10/12(月) 02:01:23 |
豊肥本線
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