秋色間近の線路端に雄花が咲き出した
針葉樹の連なる深い谷間を米坂線が往く

2017年10月 米坂線 越後片貝
紅葉が美しい荒川峡のもみじラインだが、10月上旬ではまだまだだ。やっと線路端の雄花が揺れ出した。
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- 2020/11/06(金) 00:00:00|
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例年通り9月6日の数日前には記事の仕込みを終えていたが、他人様にご迷惑をお掛けしているとは露知らず、更なる強化バージョンを作ってしまったので、急遽時期を遅らせて、一人時間差で「キューロクの日」をお祝いすることにした。只今少々野暮用に追われているため記事を作り直す気力もなく、かといって折角く作ったものを捨ててしまうほどの余裕もないので、敢えてこのようなかたちでのアップと相成った。
さて、今年は南北に合わせて本州のキューロクも加えて三本立てとした。本州のキューロクといえば米坂線、川越線、宮津線・舞鶴線や、青森や大宮、稲沢といった幾つかの入換くらいしか頭に浮かばない。面白いことにこの3線ではキューロクが客レも牽いていた。南北のキューロクが重量級の石炭輸送に邁進していたころ、本州では優雅に客レを流していた。そんなわけでキューロクの過去を振り返るには本州を忘れるわけには行かないだろう。
鉄道車両も国鉄時代になると全国共通化が進むが、それ以前の大正期の鉄道院時代の製造で、長い車歴を有するキューロクには、より大きな地域差、個体差がある。製造は川崎造船所、汽車製造、鉄道院小倉工場に限られるが、製造後の半世紀以上に及ぶ運用でその姿を大きく変えていった。北海道のキューロクと九州のキューロクには装備上も外観上も大きな違いがあり、一見すると別形式のようにも見える。地域に合わせて順応していったためだ。そのため、全国配車の創成期と末期を除けば遠方への移動は少なく、夫々の地域内で車歴を終えている。そんな地域性豊かな罐たちを、今年は南から見て行こう。

79657[行] 製造 1924年12月 汽車製造大阪 撮影 1973年8月 行橋機関区
この罐はキューロクの最終形といえる車番で、育ちは生粋の九州っ子だ。門司局が振り出しで、鳥栖や諫早を経てここ行橋で終わっており、門司管理局在籍の最後の蒸気機関車となった。キューロクにはまってしまうのは、この公式側のごちゃごちゃ感と小さな動輪と太いボイラーにある。従輪はなく炭水車はコンパクトな三軸。これらの仕様がキューロクを特徴付け、線路規格や運用を選ばない優れた性能の源になっている。そして、九州のキューロクの特徴は、比較的原型に近いこととキャブ下に点検口が開いていることだ。この罐はデフも穴開きだが、そもそもキューロクは新製時にはデフなしだったと聞いたことがある。そのため、各地で追加されたキューロクのデフは千差万別だ。
当時、日豊本線の電化は延岡まで延び、宮崎を目指して急ピッチで工事が進められていた。行橋機関区も電化とともに縮小の運命にあったが、田川線・伊田線を中心としたキューロクによる筑豊の石炭輸送の仕業を担っていた。油須原の前後に勾配区間があり、2輌、3輌とキューロクが合力して峠を越えていた。そのため列車本数以上の数の機関車が必要で、行橋機関区には常時多くのキューロクが屯していた。

49632[米] 製造 1920年7月 川崎造船所兵庫 撮影 1971年5月 米坂線 米沢
次は本州のキューロク。この罐は完全な本州仕込みだ。神戸局を振り出しに、富山、多治見、高山を経て米沢にやって来た。その米沢で廃車になっており、全てを本州内で終えている。ここ米沢機関区の罐には、ちょっと不細工な米沢式集煙装置が取り付けられていた。この時期には全て外されていたが、支柱だけが残されて何とも奇妙な容姿になっていた。無煙化を前にキューロクには錆が目立つようになってきていたが、ナンバープレートだけはこれまで通りピカピカに磨かれていた。
写真は米沢発車の客レだが、何でこんな大事な列車を駅撮りなどしているのか。まだ十分に明るいではないか。理由は単に、この後の急行「ざおう」で家に帰らなければならないためだ。日帰りの八高線に始まった蒸気撮影の旅は、この頃は夜行日帰りまできていた。当時の学校の休日は日曜祝日のみで土曜は半ドンだった。土曜の晩の夜行で発って日曜のうちに帰るというのが通例だった。しかし、この米坂線でのあまりの効率の悪さに一念発起。これ以降は、連休や春夏冬の休みに周遊券と夜行、ステーションホテルを最大限利用して、休みと体力と懐が続く限り家には帰らないという放浪生活が始まった。

9634[米] 製造 1914年11月 川崎造船所兵庫 撮影 1971年5月 第一種休車中の頃 米沢機関区
この頃、機関区の傍らには休車となった左沢線のC11やキューロクが列をなして留置されていた。なんと、その中には一度は拝んでおきたかった初期型の9634の姿もあった。ナンバープレートや主連棒が外されていないのが、逆に借別の思いを強くさせた。その後、第一種休車指定が解除され、翌年の米坂線のさよなら列車の125レを牽引することになるとは、この時は想像だにしなかった。この時既に米坂線の運用にもDE10が混じりだしており、何度かその甲高いホイッスルを聞かされる羽目になった。勿論、凸型DDには何の罪もないが、蒸気を待つ身としては、現れた新製間もないド派手な物体に好意を持つなどとんでもないことだった。

29675[稚] 製造 1919年3月 川崎造船所兵庫 撮影 1975年3月 天北線 浜頓別
最後に北海道は最北の稚内機関区のキューロク。この罐の振り出しは中部局で、育ちも完全な道産子ではない。1923年の関東大震災の際には東海道線藤沢-辻堂間で貨車もろとも脱線している。その後遺症が癒えなかったのか、1931年に北海道に渡り、長らく小樽築港で入換をしていた。現役蒸気末期の全検がきたものから廃車という関係から、この罐は最後の一年半を稚内で過ごしている。稚内機関区の守備範囲は宗谷本線北部と天北線になる。南のキューロクとは違って、原野をひた走る孤独のランナーだ。自ずとその厳しい自然環境は容姿にも表れてくるもので、九州のキューロクとは違った精悍さがある。先の米坂線の49632と同じ製造所で造られているが、半世紀後にはしっかり別物になっている。
写真は浜頓別の市街の外れで撮ったものだが、少々流し撮り風になっている。単に夕暮れが近づきシャッター速度が稼げなかったからだ。雪の北海道では太陽の具合で大きく露出が異なってくる。フィルムバッグ方式でない一眼レフでは、しょうがないので一台にはTri-X、もう一台にはPlus-X、さらなる一台にはPanatomic-Xなどということもあった。交換レンズならぬ交換ボディのようなことをやっていた。デジタル化された現在ではジョグダイヤルで勝手気儘だが、銀塩時代はそんな笑っちゃうような苦労もあった。だだ、音楽でもレコードの良さが見直されているように、銀塩にはデジタルにはない優れた面も多い。銀塩で撮られた現役蒸気と、デジタルで撮られた復活蒸気。そのイメージの違いは機関車だけではなく、写真手法の違いにもあるような気がする。
さて、大分長くなってしまったが、これでキューロクの記念日の記事を終わりにしたい。若かりし頃にキューロクを追いかけた少年たちも、今やいいオジサン、いやいいジジイとなった。何故か蒸気ファンの心に何時までも共鳴するキューロクの響きだが、遠い昔の共通体験を、再び共有できる機会があることは素晴らしいことだ。単なる昔話ではなく、今も写真や鉄道趣味が現在進行形の方々なら尚更だ。こういう掛け値なしの人の輪は大切にしないといけない。今後とも、「キューロクの日」の発展を陰ながら応援したい。
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- 2019/09/16(月) 00:00:00|
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米沢発の一番列車が越後に入った
荒川峡の紅葉はまだまだ先のようだ

2017年10月 米坂線 越後金丸
人影の少ない二番列車が荒川支流の鉄橋を渡る。雨上がりのガスが切れて、県境の尾根が顔を出した。
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- 2018/10/24(水) 00:00:00|
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日本海を後に荒川峡へと分け入る
晴れ渡った青空にべにばなが映える

2017年10月 米坂線 越後片貝
風光明媚な沿線風景は昔と何ら変わらない。宇津峠と荒川峡でキューロクを追ったあの日が懐かしい。
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- 2018/10/18(木) 00:00:00|
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稲刈り日和にコンバインの準備中
その脇を稲穂色のキハが過ぎて往く

2017年10月 米坂線 犬川
まずは前日に汚れた足回りの泥落としが要るという。暫くは動かないよと、こちらの期待をお見通しだ。
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- 2018/10/08(月) 00:00:00|
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