重量級貨物に交換停止を手旗で伝える
留萌本線が賑わっていた時代の一コマだ

1973年3月 留萌本線 大和田
現在、この大和田駅は、棒線化された侘しい貨車駅舎の無人駅になっている。現役蒸気の半世紀前、この駅は列車交換可能な有人駅だった。駅舎の他にも駅脇には何棟かの国鉄の建屋もあった。この日は、735Dで深川から留萌に移動していた。735Dは、北一己で734D、恵比島で貨5780レ、藤山で736Dと列車交換した。そして、4回目の交換が、ここ大和田での貨1792レだった。僅か50.1kmの区間で4回の交換が行われるほど、当時の留萌本線には活気があった。
この駅はカーブの途上に設けられているため、構内に進入してくる列車が、直ぐには出発信号を確認できない状況にあった。そのため、貨物列車に交換の停止をダメ出しするために、駅員氏が進入の機関士に手旗で停止を知らせていた。勿論、通票なしに次の閉鎖区間には進入できないが、石炭輸送を担う当時の留萌本線の貨物は重量級で、うっかり通過と勘違いしてしまうと、出発信号を現認してからでは停止が難しくなる。貨物列車はすぐには止まれないということだ。
当時の大和田駅は、島式ホームの1面2線と側線を1本持っていた。駅舎とホームの行き来には構内踏切を用いていた。貨物の扱いは1960年に廃止になっていたが、小駅ながらタブレット閉塞の交換駅でもあり駅員が配置されていた。乗降の多い石狩沼田や恵比島には跨線橋があり、本線としての風格が感じられた。その留萌本線も風前の灯となった。時代の流れというのは恐ろしいもので、沿線の石炭も鰊も昔話となった。どうしても羽幌線の後を追うしかないのだろうか。
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- 2020/01/29(水) 00:00:00|
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物珍しさにD61を眺めにやってきた
何の役にも立てなかった不遇の形式だ

1973年3月 留萌本線 留萌
この日の留萌本線6783レは、本務機が深川区のD514、後補機が同じく深川区のD614の、4号機ペアだった。D61なるものを近くでよく見ようと留萌区へやって来た。本務機のナメクジも好みだったので、ちょうど良かった。6783レの留萌到着は15時08分。折り返しの仕業に備えて、直ちに給水と給炭が慌ただしく行われる。到着のD514、D614、そして古武士のキューロクの3両が数珠繋ぎになって給水・給炭を受け始めた。
D614のテンダーで給水中の炭水手に、D514の前面デッキに立った操車掛が何やら話しかけている。このお二人の服装の違いが気になるが、国鉄の職制では、初級の「手職」は「掛職」よりも低い位置にあり、貸与される制服も粗末なものだった。機関士や機関助士などの「士職」はさらに上の職位となる。何時かは機関士になることを夢見て、これらの階段を登ることになる。国鉄もなかなか厳しい身分制度の職場だったといえる。
日が西に傾いて、機関車たちのサイドを照らし始めた。先程の操車掛が機関車の移動の誘導を始めた。D61は丙線キューロクの置き換えのために軸重軽減されたが、種車のD51の余剰が少なく、キューロクの評判も良かったために、結局6両のみの改造に終わった。配備先の留萌線・羽幌線ではD51との共通運用だったが、軸重軽減が響いて空転しやすく敬遠されたというから、結果的に何の役にも立てなかった不遇の形式と云える。
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- 2019/02/14(木) 00:00:00|
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短足動輪と太いボイラーがこの罐の個性だ
北と南の炭鉱町を甲斐甲斐しく走り回っていた

1973年3月 留萌本線 留萌 19605
今年のキューロクの日は、その活躍の場だった北と南の炭鉱町から2輌の罐をピックアップして、進化の違いを比較観察してみようと思う。同じ形式であっても、その土地の風土や趣向、仕業内容に合わせて、大きく姿を変えていたのが、蒸気機関車の面白さの一つだろう。
まずは北のキューロクから、留萌で入換に勤しむ深川機関区の19605。一目でわかる無骨な防寒装備が、北の大地で生きるキューロクの特徴だ。腹に抱えた給水温め器と切り詰めデフ、スノープロウ。キャブの寒さ除けの幌と、窓に付けられた防風のためのバタフライ・スクリーン。そして深川区を特徴付ける前照灯のツララ切り。どれも極寒の地を生き抜くための装備だ。蛇足になるが、煤けたテンダーに大書きされた労働組合のスローガンも、北海道の早春の風物詩かと。
変わって南のキューロクは、直方機関区のヤードで休憩する行橋区の79668。晩年にC5058から譲られた「波に千鳥」のK-7門デフが人気の罐だった。九州の罐は、何といっても原型に近い姿と、磨き込まれた鐵にある。何があったのか、この時の79668は特に入念に磨かれ黒光りしていた。化粧煙突に門デフ、一つ目の大型の前照灯。九州勢のキャブ下に並んだの点検口が少々残念だが、白線入りのすっきりとした非公式側から眺めると、とりわけこの罐の手入れの良さが際立つ。
この2輌の共通点は、日本の北と南で、ともに石炭輸送の任に当たったことだろう。留萌本線と田川線、どちらも石炭輸送のために開かれた鉄路だ。キューロクと石炭とは切っても切れない仲だ。この短足動輪と太いボイラーは、石炭列車を力強く牽くためのものだ。その容姿と高い粘着性能に反して軸重は軽く、運用線区を選ばず、使い勝手の良さは後進の追従を許さなかった。より高出力のD50やD51が現れた後は、全国各地の亜幹線やローカル線での活躍が待っていた。
かくして、キューロクは、日本の国産蒸気機関車の創成期に産声を上げ、国鉄の現役蒸気の最後を飾った、日本で最も長寿の蒸気機関車となった。今もこうして「キューロクの日」を祝ってもらえる、ファンからの愛着も深い名機だ。

1971年7月 筑豊本線 直方 79668
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- 2018/09/06(木) 00:00:00|
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ススキ野を揺らして列車が晩秋を往く
まもなく雪虫が舞い初雪がやって来る

2016年10月 留萌本線 留萌
尾花もそろそろ終わりに近づき、朝晩の冷え込みが日に日に強まる頃、雪虫が舞い始める。北国の晩秋の風物詩だ。飛ぶ姿は天使の様だが、正体はあくまでアブラムシの一種だ。この手のアブラムシは、日本に広く分布しており、井上靖の伊豆半島を舞台にした小説の題名ともなった「しろばんば」も雪虫のひとつの呼び名だ。小説家が幼少期を過ごした伊豆湯ヶ島では、晩秋にこの虫が舞うさまがよく見られたのであろう。少し前まで、猛暑と熱中症が毎日のニュースで連呼されていたが、やっと秋風が吹き出した。最近では夏が長くなり、春秋が短くなったような気がする。短くなった秋は足早に通り過ぎて行く。油断をすると、あっと言う間に雪虫が舞ってしまう。
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- 2017/09/24(日) 00:00:00|
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静まり返った駅前には、遠くから微かな波音が聞こえてくる
95年間この町を見守り続けた駅舎の灯が消えようとしていた

2016年10月 留萌本線 増毛
21時41分、深川からの最終列車4935Dが到着し、8分間の停車の後、21時49分発の最終の留萌行き5922Dとなって折り返して行く。この日は仕事帰りの勤め人と思しき方が一人だけ降りてきたが、返しの列車の乗客は皆無だった。ただし、これは平日の話で、土曜休日は1本前の19時台の列車が最終となる。最終運行日の12月4日は日曜日だったため、19時台がこの線区の最終運行列車となった。始発から15時間半の、長いような短いような増毛駅の一日が終わろうとしていた。静まり返った駅には、折からの強風に荒れる海からの波音が聞こえていた。
近頃では葬式鉄なる現象があるようで、廃止が決まった列車や車輌、路線に人が押し寄せているらしい。小生は一応「日常の鉄道」ということを大切にしているつもりなので、「非日常」となってしまったものは原則対象外だ。廃止前の増毛に行くかどうかも悩んだが、増毛港への誘惑には勝てなかった。とは云え、増毛は内地の都市からは極めて遠い。現地では何人かの道内の撮り鉄の方にお会いしただけで、いつも通り一人で列車を待つことが出来た。増毛駅の線路を囲むロープには少々落胆はしたが、好天の増毛港に立つことが叶ったし、それなりに静かに最後の増毛を眺める事が出来、44年ぶりのリベンジで気が済んだというものだ。
JR北海道の路線の廃止は、1995年の深名線から暫くはなかったが、19年後の2014年の江差線の頃から俄に雲行きが怪しくなり、それから僅か2年後の留萌線の増毛と相成った。この先も多くの廃止が計画されるに至って、北の鉄路の行く末がやっと全国区のニュースとなったのも束の間、今はトランプ大統領の爆弾発言の前には、それどころではなくなってしまったようだ。この分では、状況は厳しくなるばかりだ。世間の話題にも上ることなく、次々と路線が地図から消えていくことになりそうだ。拙ブログのカテゴリには、沢山の北海道の路線名が上がっているが、その多くが既に廃止路線になっている。それが時代の流れというものだろうが、思い出路線ばかりになってしまうのも哀しいものだ。



これで、6回連載でお送りした「増毛の残照」を終わります。

2016年10月 留萌本線 箸別
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- 2017/01/25(水) 00:30:00|
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