夏の加太にブラストが響き渡った
奈良のつばめが猛然とダッシュする

1973年7月 関西本線 加太
「つばめ」マークと云えば、すなわち「スワローエンジェル」の愛称を持つC622という公式になる。1951年に鷹取工場と宮原機関区の要望で、ステンレス板で作られたツバメのシルエットが左右のデフレクターに取り付けられた。その姿は小樽築港に移っても変わることなく、急行「ニセコ」の象徴的な存在でもあった。
その一方で、現役蒸気末期には、もう一両の「つばめ」マークが存在した。奈良機関区のD51831になる。かつての奈良機関区には、「つばめ」以外にも「月と鹿」、「はと」、「かもめ」のデフマークが存在した。何れも、加太越えの鷹取式集煙装置と重油併燃装置の重装備のD51に取り付けられていた。「つばめ」は元々944号機に付いていたが、廃車に伴い831号機に移植されている。この装飾は1971年から1972年にかけて施されたもので、当時のSLブームの中での「スワローエンジェル」の圧倒的な人気に肖ったものだろう。そんな出自の違いからしても、これらは元祖と比較するようなものではない。
それと、忘れてはならないのが国鉄バスの「つばめ」マークで、現在でも一部のジェイアールバスに継承されている。さらには「国鉄スワローズ」というのもあった。特急「燕」は、「富士」、「櫻」に次ぐ3番目の特急列車として登場したが、東海道・山陽新幹線の延伸により西に追いやられた。博多開業時に一旦その名は消えたが、現在は九州新幹線の列車名として復活している。つまり、国鉄にとっても、JRにとっても、「つばめ」という名は特別な存在であることが伺える。
写真は加太を出発する荷41レだ。由緒ある「つばめ」が荷物列車とは少々情けないが、煙の方はなかなか盛大だ。勿論、人気取りの装飾はご遠慮頂きたいところだが、まあ、このくらいのワンポイントマークであれば、目くじらを立てるほどではあるまい。今年の夏は、コロナと猛暑でうだうだ過ごしているが、蒸気を追いかけていた頃の行動力が懐かしい。炎天下の線路を歩き回るのも決して楽ではなかったはずだ。
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- 2020/08/14(金) 00:00:00|
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どこから見ても太っちょのハチロクだ
それが災いしたのか殿堂入りも逃した

1972年4月 関西本線 亀山
現役蒸気末期までこの形式は生き残っていたが、何とも人気かなくパッとしない印象だった。本線上の営業運転は1968年の両毛線が最後で、その後はこうした入換に専念していた。写真はC50のラストナンバーの154号機になる。その両毛線の小山からここ亀山に流れてきた。この形式は、ハチロクを近代化することが目的だったが、重量化したのが仇となって、結局ハチロクよりも先に営業現場を離れることになった。梅小路蒸気機関車館への殿堂入りにも落選したが、それでも6両が在野で静態保存されている。
写真は、荷物車の入換作業になる。これから何処往きだかの客車列車に連結するのだろう。こんな地味な作業がこの罐の余生だ。後ろに見えるのは、亀山機関区の巨大な給炭設備だ。加太越えの重装備のデゴイチの姿も見える。この時代、亀山には関西線、紀勢線のD51やC57が犇めいていたが、当時としては珍しく機関区へ入ることが難しく、本線越しに機関区を眺める羽目になった。このラストナンバーは、亀山でデフなしトラ塗になったが、前年の国鉄100年の映画出演でトラ塗は消され、その姿で廃車となった。
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- 2020/07/01(水) 00:00:00|
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45年前の今時分も炎天が続いていた
そこには蒸気を追いかけた熱い日々があった

1973年7月 関西本線 柘植
夏休み入って間もない45年前の昨晩、酔っぱらいの定番帰宅列車の東京発23:43の143M大垣行きに乗車した。名古屋で07:22発の関西本線の333Dに乗り換えて、45年前の今日の09:40に加太に降り立った。まずは、加太に1時間程停車する荷41レと対面して、久し振りの石炭の匂いを満喫する。牽引機はツバメマークの831号機だった。その後は、中在家側の有名な「加太の大築堤」には行かず、反対方向の関側に向かっている。小学生の弟を連れて蒸気を撮りに来ていたご兄弟とご一緒し、トンネルの出口にある小さな鉄橋の下を流れる川に降り、川に入って「月と鹿」の882号機が後補機に付く貨物列車を撮っている。先日、
あるブログ を拝見していて、そのトンネルと鉄橋が、坊谷隧道、坊谷川橋梁という名であることを知った。その時の3人が写った記念写真が残っているので、アップしてお二人を探したいところだが、そこはグッと堪えよう。
加太は早々に終わりにして、13:35の338Dで亀山に向かう。頻繁に入換作業が続く亀山は、当時、既に立ち入ることが難しい機関区になっていたため、傍目からC50の入換や、D51の発着を眺めた。参宮線のC57を鈴鹿川橋梁で撮って、こちらも早々に引き上げて、15:23の341Dで、今度は柘植に向かう。柘植では、加太越えの後補機の連結、解放が行われるため、給水、給炭、転車などの設備が整っていたが、こちらではほぼ自由に構内を歩き回れた。日が傾いてきたヤードで休むD51885の雄姿を、精緻な形式写真風に残そうと、珍しく三脚にカメラを据えた。ついでに、セルフタイマーで自身の記念写真も撮ってみた。今となっては、蒸気だけよりも当時のことが偲ばれるのではないかと、恥を忍んでこんな写真を上梓してみた。当たり前のことだが、45年前は本当に若かった。それは、現役蒸気の方々は皆一緒だ。若かりし頃の、45年前のあの夏の日に思いを馳せて欲しい。夫々の煙の思い出が蘇るはずだ。
夏の夕刻まだまだ明るいが、柘植を16:49発の713D急行「くまの」で京都へ向かう。そして、京都18:15発の長崎行き203レ「雲仙3号」の人となった。既に何回か訪れていた関西線を軽いメニューにしたのは、翌日から始まる山陰線、山口線、三江北線を訪ねる長旅が待っていたからだ。山陰線の西の玄関の下関に着くのは、45年前の明日の早朝の04:35となる。

加太駅の荷41レ ツバメマークのD51831
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- 2018/07/24(火) 00:00:00|
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夏の草いきれの中、D51牽引の荷物列車が到着し、何時ものように小荷物の積み降ろしが始まった
こんな人里から離れた山間の小駅でも、鉄道小荷物が送り出され、届けられていた

1973年7月 関西本線 加太
今の世の中、宅配便は無くてはならない存在だ。クロネコ、飛脚、ペリカン、カンガルー、こぐま・・・などなど、選択肢も色々ある。通販が急速に広がるに連れて、宅配便もますます盛んだ。冷凍や冷蔵の取扱も一般的になった。今や、通販サイトでクリックすれば、翌日に品物を手にすることも出来る便利な時代になったが、1976年にクロネコが参入するまでは、荷物を送る手段は、郵便小包と鉄道小荷物の二つしかなかった。
現役蒸気が活躍していた時代、鄙びたローカル線であっても、多くの駅には、発券の窓口と小荷物の窓口が、隣り合って設けられていた。小荷物の窓口の向こうには、昔風呂屋にあったような秤が鎮座していた。駅舎の軒下には、小荷物を運ぶためのリヤカーが必ず置いてあった。鉄道が全盛の時代、荷物や貨物の輸送でも、大きな役割を果たしていた。
そんな鉄道小荷物の取扱が盛んだった頃、本線筋には荷物専用の列車が走っていた。夏の草いきれの中、亀山方面からの荷物列車が待避線に到着し、荷物の積み降ろしが始まった。その傍らで、編上げ靴にヘルメット姿の保線の3人組が点検作業を始めた。草むしりをしているのは、どう見てもナッパ服の上着を脱いだ機関士のようだ。夏にはこういう姿をよく見かけた。何となく懐かしさが込み上げてくるような国鉄時代の駅の眺めだ。その後、クロネコ勢力に屈した鉄道小荷物は、1986年に廃止された。加太も待避線が撤去され、駅も無人化されてしまった。
この関西本線の荷物列車41レの加太越えの姿が
こちらでご覧になれます。
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- 2016/03/25(金) 00:36:13|
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関西本線加太駅のホーム盛り土には年代物の桜があった。
43年前の今日、調度その桜が咲き始めていた。

1972年4月 関西本線 加太-中在家信号所
諸兄の「40年前北海道コラボ」がひと段落したところだが、習慣というのは恐ろしいもので、つい今日の日付の過去を探してしまった。
ありました。43年前の今日が。関西本線の加太越えに行っていた。
昨日の関東地方は愚図ついた空模様で、時折弱い雨も降り、桜が満開の週末だというのに、生憎の天気となってしまった。今日も雨が降る予報だ。43年前の加太越えは、昼過ぎまで本降りの雨で、同じように生憎の一日だった。慌てて撮ったと思われる一枚に、画面上半分にビニールが写っていた。昔よくやったドジだ。
天気が悪い分、気温が低く、湿度が高い。おまけに空転気味だ。暴煙とはいかないまでも、盛大な煙と言えるだろう。悪天候で前照灯が眩しい。こんな天気だが、有名なお立ち台だけあって、この日も10名近くの同業者が屯していた。

行きに乗った4月4日発の急行「紀伊」の急行券・寝台券
この切符の用紙の柄は蒸気の動輪を模ったものだ
東京から関西本線の撮影に便利なのは、やはり夜行の急行「紀伊」だった。ただし、大きな問題があった。それは、「紀伊」には自由席がなく、寝台とグリーンしかなかったことだ。大枚をはたいて手にした切符での出撃だ。どんなに雨が降ろうとも、列車が来る限り最後まで撮影を続けたことは、言うまでもない。
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- 2015/04/05(日) 00:30:43|
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