秋の駒ヶ岳山麓を北斗が往く
仁山を降れば終着駅はすぐだ

2017年10月 函館本線 赤井川
8月も終わり、何となく少し暑さも和らいできたように感じる。ということは、台風のシーズンがやって来るということだ。早速、天気予報では台風の進路予想が忙しくなってきた。現在 沖縄近海を北上中の9号は、最大風速70m/sという暴風を伴って九州を掠めていく予報だ。そして、小笠原近海で発達中の熱帯低気圧は、狂暴化して本州を直撃というシナリオが尤もらしくなってきた。世界各国のスパコンが常時気象の変化を予測しているが、どうやら、そういう成り行きで一致しているようだ。予報精度は年々向上しているが、防災対策は相変わらず逃げることしかない。まあ、来るのが正確に分かっているのだから、命が惜しけりゃとっとと逃げるほかない。
さて、今回の赤井川は、大沼公園の森側の次駅となる。函館本線のため116年の長い歴史があるが、現在の利用状況は全くもって閑散ローカル線並みだ。駒ヶ岳西麓の森林地帯を抜けるこの区間には、線路に沿って畑作耕地が広がるが、その開拓は1897年の大沼開拓に始まった。その後の観光地化に伴ってリゾート開発の手も入り、別荘地なども開かれたものの、近年では寂れるばかりだ。赤井川にも広大な別荘地が開発されたが、大半は林のままで、整然とした道だけが残っている。一方、駅傍には立派な大沼レイクゴルフクラブがあるが、駅とは無縁の存在だ。1日普通列車6往復の駅には、舗装道路すら通じておらず、例によって、利用客は数人の高校生だけだ。
写真展のご紹介先日、
風太郎さんの写真展に行ってきました。
4年前の新宿ニコンサロンでの「旅のたまゆら 1981-1988」をご記憶の方も大勢おられると思います。
こあらまは、その「たまゆら」の大ファンでして、その素晴らしい描写力にぞっこんです。

珠玉の「たまゆら」はモノクロの世界なのですが、今回はカラー全開の色彩の海といった感じです。
題名は「ミンガラーバ! ミャンマー・レイルサイドストーリー」。ミャンマーの線路端が題材になっています。
モノクロとカラーは、ちょっと違う写真テクニックではないかと思うのですが、手の内がなかなか多彩のようです。

展示の仕方もまた凄いです。写真が壁紙のようにびっしりです。インクをどれだけ使ったんでしょうか。
南国の溢れんばかりの色彩が、まず目に飛び込んできます。熱帯の湿気も伝わってきます。
面白いもので色彩豊かな映像と笑顔は、見る人にエネルギーを送るようです。

写真の人たちは、経済的には、「たまゆら」の日本の80年代よりさらに前の時代を思わせます。
暖かいところは、金がなくてもそれ程には食料には困らないという特典があります。凍死もしません。
その分表情が明るいのかもしれませんが、やはり貧しいことには変わりはありません。

そんなミャンマーの線路端の人たちを見て何を思うかは、その人その人によって様々だと思います。
肝心なことは、何かを思わせることができる力が写真に宿っているかです。
コロナで蔓延してしまった得も言われぬ倦怠感には、いい薬になるかもしれません。

ロングランの写真展で、東京新宿では9月9日まで、その後大阪に会場を移して9月30日までです。
詳しくは、
オリンパスのHPへ。
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- 2020/09/01(火) 00:00:00|
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その日の噴火湾は穏やかだった
快速アイリス代わりし820Dが往く

2017年10月 函館本線 落部
噴火湾とも呼ばれる内浦湾だが、周辺の地質調査などから火山活動によるカルデラが起源ではないというのが定説だ。湾の形が余りに綺麗な円形のためカルデラが連想され、噴火湾という呼び名が派生したようだ。室蘭市のチキウ岬と森町の松屋崎を繋ぐ開口部は約30kmだが、陸路を辿ると何と165kmにもなる。森からは海上に浮かぶ室蘭の市街は直ぐそこに見えるが、行くとなるとなかなかの難儀な距離になる。一方、写真の対岸に見えるの街は、50km程先の蟹の街の長万部だが、そこで鉄路は二手に分かれる。函館本線は山線となって、背景の山並みに分け入り、三つの峠を越えて小樽を目指す。かつて、少し左手の国縫からは、日本海側の当時の瀬棚町に向けて瀬棚線が伸びていた。
この820Dは、前年2016年春の北海道新幹線開業までは、快速「アイリス」という列車だった。瀬棚線在りし頃の急行「せたな」の末裔となる。瀬棚線廃止時には快速「せたな」に格下げされていたが、廃止後は函館-長万部間の筋が快速「アイリス」に引き継がれた。2000年に下りが普通列車に格下げされ、上り函館行のみで運行されていた。そして、その上りも格下げされ、1966年に運行が始まった急行「せたな」の系譜に終止符が打たれた。快速が普通になったからと云って利便性に大きな違いが在るわけではないが、列車名が無くなるのはやはり寂しいものだ。特急やコンテナ貨物が行き交う立派な複線区間を、快速時代から変わらぬキハ40の単行が、ダイヤの隙間を掻い潜って函館を目指す。
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- 2020/08/28(金) 00:00:00|
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湾曲した函館のホームに佇む北の82系
何とか厳しい冬の自然を耐え偲んでいた

1975年3月 函館本線 函館
何ともスタイリッシュな顔付だ。全国の非電化区間の華となったキハ82系の雄姿だ。蒸気機関車と正面対決することのなかったこの気動車は、蒸気ファンからも憎まれることもなく、多くの鉄道愛好家の記憶に残ることになった。この気動車の開発の発端は、1958年に鮮烈なデビューを飾った、昼行特急用の20系電車と寝台特急用の20系客車の「あさかぜ」に遡る。20系電車は、後の車両称号規程改正で151系となった「こだま形」だ。その「こだま形」をベースに設計された気動車がキハ81系で、1960年の「はつかり」で登場している。あの流麗なボンネット型の「こだま」が、どうして「ブルドック顔」になってしまったのかは知らないが、増減車が求められる亜幹線では使い勝手が悪かった。そこで、本生産とも言うべき82系の貫通式に落ち着いた。
しかし、極めて非力なパワーユニットと全体的な故障の多さは現場泣かせだった。奥羽本線の「つばさ」に導入された際には、板谷峠では補機を付けるほどの気配りで、パワーアップされた181系の時代でも単独走行は儘ならなかった。特に苦労が絶えなかったのが写真の北海道だ。従来車ではキハ22やキハ56と言った耐寒・耐雪仕様が北海道には投入されたが、キハ82系では特別な配慮はなく、現場での創意工夫が求められた。水回りの凍結防止などの対策は現場任せだった。主要駅では、吹雪の日には木槌を持った駅員が各車両に待機して、凍ったドアを叩き開いていたのを覚えている。そんなお困り車両ではあったが、長大編成を組んだキハ82が北の大地を駆け抜ける様は、まさに国鉄の威信を賭けた力強い走りで、それはそれは豪快なものだった。
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- 2020/07/21(火) 00:00:00|
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山線を往く車両は変わっていくが
羊蹄の雄大さには何の変りもない

2018年10月 函館本線 倶知安
この踏切が有名になったのは、復活C623の「C62ニセコ号」の時代だ。それ以前の現役蒸気の時代には、それほど脚光を浴びる場所ではなかった。その理由の一つに、下りのC62重連の103レ「ニセコ3号」の通過時間が遅過ぎたせいもあったのだろう。1970年1月の時刻表を覗いてみると、103レの倶知安発は18:26、小沢発は18:42とある。現代のデジタル一眼の感度をもってすれば、夏場であれば逢魔時の色付く羊蹄山をバックに、倶知安峠に向けて猛ダッシュするジェット音の巨体を捉えることも出来ただろうが、銀塩時代には到底叶わないことだった。精々倶知安駅の場内灯の下で慌ただしく繰り広げられた火床整理、そして吹雪の中の怒涛の発進を、スローシャッターでフィルムに焼き付けるのが通例だった。
そんなかつての超有名スポットも、今では殆ど人気のない静かな踏切に戻っている。その昔、線路際まで畑だったように記憶しているが、大分農地が後退して視界が狭まったような気がする。それでも羊蹄の姿が見られる際には、ついつい引き込まれてしまう場所だ。山の表情は千差万別で、撮り尽くすことはない。ただし、今や存続すら覚束ないローカル線化した山線だけに、列車が少ないのが最大のネックだ。この日も、ピッカピカなら通過していただろうが、少々雲の湧き出しが気になったので、国道から吸い込まれてしまった。この場所に立つと、なんだかんだと様々な思い出が蘇る。再びここでC62を待つことはもうないだろうが、その残像に導かれて、これからもこの場所に通うことになるような気がする。
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- 2019/10/24(木) 00:00:00|
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市電に夕方のラッシュが訪れる頃
函館山山頂に夜景見学の時間が迫る

2018年10月 函館本線 函館
このモダンな5代目函館駅舎は、北海道新幹線の乗り入れに備えて、函館市の50億円の財政支援によって2003年に使用開始された。デザインはJR北海道と提携先であるデンマーク国鉄とのコラボよるものだ。しかし、立派な駅舎が出来上がり、新幹線の受け入れ準備が出来たかと思いきや、結局ここには新幹線はやって来なかった。札幌との距離が優先され、新駅は北斗市の畑の中に造られた。駅名は、函館市と北斗市の攻防戦の上、新函館北斗という継ぎ接ぎだらけの美しくない駅名で落着となった。地元の駆け引きを他所に、北海道新幹線は低迷を続けている。2030年に予定されている札幌延伸に漕ぎつけても、業績不振が解消されなかったら、一体誰が責任をとるのだろうか。

駅舎の正面入口の上には巨大な北海道新幹線の看板が見える。その広告に起用されたのが、今や大リーガーとなった当時の日本ハムファイターズの大谷翔平選手だ。思うに、ファイターズは本拠地を東京から札幌に移して本当に良かったと思う。東京の後楽園ドームでは、常にジャイアンツの裏チームのようだった。ご存知の通り、札幌に移ってからというもの道民の声援を受けて人気度は急上昇だ。

こちらは駅前から見た函館山になる。そろそろ夜景の時間が近づき、駅前からも函館山の展望台に向かう路線バスが引っ切り無しに出ていく。手前のすぐそこに見えるのが有名な函館朝市であるが、あまりに観光化し過ぎてしまったので、地元民がここで買い物することは珍しくなった。


代わって、こちらは函館市電の函館駅前停留場だ。こちらも洒落たデザインの停留場で、2015年には「グッドデザイン賞」を受賞している。夕方のラッシュ時間を迎えており、昼間の観光電車の趣とは違った表情を見せている。停車しているのは低床式の「らっくる号」だ。

その昔、駅の通路が津軽海峡を渡る連絡船の桟橋に繋がっていたころ、この駅は北の玄関口だった。多くの優等列車の始発がここ函館で、連絡船に合わせて道内各地とを結ぶ特急や急行が設定されていた。北海道新幹線の開業で、再び玄関口の威厳を取り戻そうとしたが、そう上手くは行かなかった。最近では、名物のイカが不漁な上に、韓国人旅行客の激減により、特に観光関連業は辛いところだ。しかし、振るわない点を論っているだけでは始まらない。是非とも過去の栄華に縛られない、未来志向の函館であって欲しい。
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- 2019/10/16(水) 00:00:00|
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