あの日あの時シゴゴを追いやった憎き奴
とても面構えを撮る気にはなれなかった

1975年3月 宗谷本線 下沼
今年一発目の鉄道車両は何と「赤ブタ」ことDD51だ。巷の噂では、この春、JR貨物の稲沢のDD51が運用を終えるようだ。JR貨物の定期運行が無くなっても、JR西と東にも車籍があるので、工臨やら復活蒸気の代走やらで、暫くはその姿を見ることは出来るだろう。蒸気機関車を駆逐する使命をもって開発された凸型DDの花形だが、半世紀を経た今、第一線を退くことになったようだ。余生が、復活蒸気のサポートとは皮肉なものだ。
この宗谷線の「最果て鈍行」は、写真の半年前まではC55の牽引だった。宗谷線北部の朝の撮影は、この上りの322レから始まるのが通例だった。DD51には申し訳ないが、C55に代わってそんな列車を牽くことになっても憎まれるだけだった。この写真には、当然のことのように前のコマはない。撮影イメージは、「C55の最果て鈍行」から「北辺で働く荷物車」に変わっていた。哀しいかな、DD51への写欲はマニ60よりも相当低いものだった。
ただ、勝手なもので、今になってこうして眺めてみると悪いものではない。DF200何ぞよりよっぽど旧客仕様には似合っている。それも半世紀という時間の成せる業で、当時はとてもそんな気にはなれなかった。今後、動態保存機が現れるかは知らないが、1会社1両くらいは復活蒸気のお供に保存した方がいいように思えるようになった。あれだけ現役蒸気ファンから忌み嫌われたDD51にも、少しの愛の手を差し伸べても罰は当たるまい。
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- 2021/01/03(日) 00:00:00|
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北の小駅は今頃雪の中だろう
間もなく記憶の中だけの駅となる

2018年10月 宗谷本線 東六線
今年も残すところ半月ほどになったが、コロナに明け暮れた一年だった。第3波においては、案の定、政府はバラ撒き経済対策の事しか頭になく、高齢者を除けば、市民はどうにでもなれと言わんばかりにタガが外れてしまった。医療関係者の悲痛な叫びは、そんな社会風潮を前に空回りしている。一方で、ワクチンビジネスは国威も絡んで熾烈な戦いになっているが、その戦列には技術立国を自負する日本の影も形もない。日本は「新薬・創薬」分野では後進国、いや、先進国から相手にもされない国になってしまった。硬直的な医療体制と、何を守っているのか分からない薬事行政の賜物と言っていい。ワクチンの緊急輸入も人命などより、オリンピック開催か何かが念頭にあるのだろう。
さて、今回の写真はお気に入りの宗谷本線だが、来春には多くの小駅が廃止の予定だ。この東六線もその一つで、来春の雪解けを待たずに役割を終えそうだ。「車両のない鉄道写真」の原点ともなった東六線だが、哀しいかな、どうやら終焉の時がやって来たようだ。どうしても、その最後を見届けたかったが、コロナもあり諸事情で今秋の渡道は叶わなかった。今年も暖冬で始まり、12月に入っても積雪がなかった北海道各地だが、ここに来て年末寒波が入ってきた。今頃は東六線も雪の中に人知れず佇んでいるはずだ。コロナはまだまだ感染拡大の一途だろう。寂しい年末年始になり、鉄道各社の苦悩は増々深刻になりそうだ。小駅は更に消えていくかもしれないが、じっと堪えるほかない。
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- 2020/12/14(月) 00:00:00|
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北海道らしい広大な眺めが広がる
そんな中の小さな駅がまた消える

2018年10月 宗谷本線 紋穂内
この風景が気に入って、列車写りが厳しいのは分かっていたが、数少ない列車をこの場所で待つことにした。この風景は北海道中川郡美深町字紋穂内にある。長い待ち時間も、この美しい眺めのお蔭で退屈することはなかった。小さく現れた単行の列車は、間もなく紋穂内の駅に到着するところだ。
紋穂内の駅名の由来は、ウィキペディアによれば、アイヌ語の「モヌプオナイ」(小さい・野に・ある・川) などの幾つかのアイヌ語説があるが、何れもが現在のパンケニウプ川を指すとあり、それを引用したと思われる記述がSNS上に多数ある。そこで、このパンケニウプ川を探すが、地図上にその名を見付けることが出来ない。やっと、国交省の資料から、一駅南の初野辺りで天塩川に合流している美深パンケ川のアイヌ語名であることが判った。ちなみに、同じ美深町内にはペンケニウプ川というのもあるが、こちらは美幸線の終点だった仁宇布を通って南美深辺りで天塩川に注いでいる。どちらもニウプ川であり、流域は殆どが仁宇布の地名を持ち、仁宇布の地名の由来にもなっている。ウィキペディアの出典に示された札幌鉄道局編の『駅名の起源』の記述を確かめてみたいところだが、然るべき場所に足を運ばないと確認できそうもない。もし、「モヌプオナイ」が天塩川本流を差すのであれば、そこを何度も訪れた旅人としては全てが合点がいくのだが、何故にパンケニウプ川なのかという疑問が残ってしまった。
名は体を表すと言われるように、地名の由来を調べることは、その土地を理解する上で重要なことだ。そのため、ついつい深入りして迷宮入りしてしまったが、このくらいにしておこう。この「小さい野にある」紋穂内は、本当に小さい駅だ。国鉄末期までは交換施設を有する有人駅だったが、現在は貨車駅舎の棒線無人駅となっており、駅前には建屋すら見当たらない。2020年の今年、美深町が紋穂内駅の廃止を容認したと報じられた。このまま行くと、来年の雪解けを待たずに駅は無くなることになる。

紋穂内の駅のすぐ横を流れる天塩川本流。日本有数の大河だが、冬の厳しさで全面結氷する。下流域は人工工作物がなく原始の姿を留めている。対岸の国道40号線へは立派な橋が架かっている。今や日本全国に道路網が整備された。鉄道なんぞがなくてもやって行けるのだろう。
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- 2020/10/07(水) 00:00:00|
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なだらかな丘陵地帯に牧草地が広がる
最北の景色が広がり塒の終着駅は近い

1974年8月 宗谷本線 兜沼
少々機関車が小さいが、こういうのを日の丸写真とか編成写真とか云うようだ。車輌ファンの王道的構図だろう。こあらまも、現役蒸気時代は車輌ファンだったので、こんな写真を結構撮っている。と言うよりは、どうしても好みのアングルが見つからなかった時の最終手段だった。線路を歩いて場所探しをしていたわけだから、見つからなければ当然こんなことになる。情報が乏しい時代、多くで行き当たりばったりだった。ただ、この年の夏の北海道では蒸気撮影は二の次だった。申し訳程度に駅傍の線路端をうろついていた。北海道は氷雪のイメージが強く、雪のない北の大地では何となくモチベーションが上がらなかったし、場所探しは熊笹に阻まれ、積雪期のようには行かなかった。
さて、写真のキューロクは稚内機関区の所属だ。この 49673 が製造されたのは1920年のことで、東京局がスタートとなり、昭和天皇の即位御大礼のお召列車も牽いている。1945年に北海道の遠軽区に渡り、名寄線や湧網線を走っていたが、ド派手なゼブラが目印だった。1972年には現役蒸気末期の全検都合の転属で稚内に移り、宗谷線と天北線を担当した。転属後2年が経っていたが、遠軽時代のゼブラの痕跡が見られる。稚内機関区で最後まで残ったSLの1輌で、1975年に廃車となったが車歴は55年に及んだ。列車は4381レで稚内を目指している。何とも宗谷線の最終章の風景だ。なだらかな丘陵地帯の先端にその稚内がある。線路の両側は熊笹で、これでは線路端を離れられない。
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- 2020/10/03(土) 00:00:00|
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