繰り返し報道された野蒜の出来事
保存された駅が問いかけるものとは

2018年11月 仙石線 旧野蒜
8年前の3月11日の昼過ぎ、こあらまは山梨にいた。激しい地震に家の外へ飛び出したが、揺れで道がゆらゆらとうねっていたのを、はっきりと覚えている。直ぐに停電になり、非常用のラジオから流れてくる大津波の報道に、事の重大さを知った。車中泊用のランタンの光を頼りに、薪ストーブで夕食を作り、湯を沸かして水回りの凍結を防いだ。電気が復旧したのは翌朝だったが、夜明け前に再び強い揺れに見舞われた。こちらの震源は、長野県北部だった。
あの大津波から8年が経った。先日、山田線の沿岸部の宮古-釜石間でのJR東日本による設備の復旧工事が終わり、三陸鉄道による試運転が始まった。これで、被災した路線は廃線になることなく、全線の復旧の目途が立った。一足早く2015年に復旧した仙石線も、大きな被害を受けている。被害の中心は東松島市の野蒜地区だった。多くの津波被害の報道が発信された場所なので、皆さんご記憶のことだろう。今回はその野蒜駅の現在の様子をご紹介したい。
現在、陸前大塚-陸前小野間のルートは、100億円の経費を投じて、高台に付け替えられている。新しい野蒜駅も500m程離れた内陸に新設された。残された旧野蒜駅は「災害復興伝承館」として保存開館され、震災の記憶を後世に伝える役目を負った。この時は「ファミリーマート東松島野蒜駅店」が同居していたが、今は閉店の上、伝承館の一部に充てられているようだ。奥松島の玄関駅は、期せずして震災のモニュメントとして観光客を迎えることとなった。

がれきはすっかり撤去され、清掃もされているので、一見大きな被害があったようには感じられない。頑丈な単純構造のホームは、津波の襲来にも耐えたのだろうが、細部にはやはり傷跡を見て取れる。中央の電柱の先の高台に建物が見えるが、こちらが新しい野蒜駅になる。旧駅と同じ島式ホームの2面2線になっている。

旧駅舎の災害復興伝承館に展示されている自動券売機。形は辛うじて保たれているが、ディスプレイなどは破壊されている。Suica対応機であることが、余計に痛々しい。

写真パネルがメインの展示室内の大時計は、元は駅舎正面に掲げられていたもので、地震発生時刻の2時47分を指している。

地震発生時刻は、上下の列車が夫々野蒜を出発した直後だった。駅と夫々の列車での出来事は、何度となく報道されている。人的被害を最小限に留められたのは、乗務員と乗客の的確な判断だった。

4両編成の上り1426Sあおば通行きは、津波の直撃を受けて流された。50名の乗客は乗務員の誘導で高台の野蒜小学校の体育館に逃れたが、そこすら安全な場所ではなかった。運転士は濁流にのまれたが、運よく避難の男性たちに救助されて、九死に一生を得ている。

一方、4両編成の下り3353S石巻行きは、この場所で停止した。野蒜駅から少しばかり登った小高い丘の切通だった。写真は陸前小野側から見たものだ。こちらも、揺れが落ち着くと、96名の乗客は乗務員の誘導で、同様に野蒜小学校への避難を開始した。乗客の一人だった石巻市の阿部義美さんは、元消防隊員でチリ地震の津波を経験していた。彼の直感ともいえる判断によって、全員が元居た車両へと引き返したが、その直後に避難経路は津波にのみ込まれたという。乗客・乗員は、持ち合わせた菓子などを分け合って一夜を凌いだという。
ここには重要な示唆がある。乗務員は指令から野蒜小学校への避難を指示されていた。しかし、その指示に反した行動を採り、結果的にその判断が乗客の命を救うことになった。非常の緊急時、指令の指示が優先するのか。現場の判断が優先するのか。その答えは後者ということになった。同時に、乗務員の判断能力がより問われることにもなった。旅客航空機での乗客の安全確保は、常に現場の機長の判断が基本だ。鉄道においても同じということだ。JR北海道の車両火災事故での乗務員の対応は、激しい非難を浴びたが、乗務員が我先に逃げ出したどこかの国の航空機とは、比べものにならないほど野蒜の鉄道員は優秀だった。

同じ場所から陸前小野側を写したものだ。前方の立派な高架橋が新線になる。旧線には既にレールはなく、徐々に線路の痕跡も消えつつある。こうやって津波の記憶も消えていくのであろうか。

歪んだレールが津波の威力を伝えている。自然災害の前には人間は余りにも無力だ。鉄壁と思われた田老の防潮堤も呆気なく破られた。それでも人工物による防災のため、三陸沿岸の町々は今も工事現場の様相を呈している。盛り土によって造成された新たな敷地は、高度成長期の東京近郊のニュウータウンを連想させる。あれほど風情のある港町だった陸前高田には、もうその面影は微塵もない。その首都圏のニュータウンにも、今や高齢化による存亡の危機が迫る。立派な道路が開通すれば集落が消えるというのは、北海道でよく言われたことだ。山田に造成された高台の新たな街区は、すでに当初のニーズを失い、その8割に利用予定がないという。被災地の復興計画は、どういう過程を経て策定されたのだろうか。巨大防潮堤や新たな街区の造成のような大規模防災土木事業ばかりが、最優先課題とされてきた。被災地が公共工事の食い物にされた感すらする。大規模工事が終わった時、そこに何を見るのか。近い将来、結果が出るだろう。
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テーマ:鉄道写真 - ジャンル:写真
- 2019/03/14(木) 00:00:00|
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