この罐は晩年を入換専用機として生きてきた
その姿はすっかりその任務に順化していた

1971年7月 鹿児島本線 西鹿児島
一年が過ぎるのも早いもので、あっという間に今年も「ハチロクの日」がやってまいりました。それにしても暑い日が続いていますね。北の涼をお届けしたいところですが、何と今回は南国は鹿児島からです。今年は、異色のハチロク「48674」です。九州で一生を遂げた罐で、長らく入換専用機として過ごしてきたため、デフはなく、テンダーがまるでC56のように上部両側端切欠きに改造されていました。入換機らしくゼブラ塗装も施されていました。当時は鹿児島機関区所属で、実質的な鹿児島本線と日豊本線の終着駅だった西鹿児島と、本拠地の鹿児島での入換作業が任務でした。歴史の古い機関区は鹿児島駅に併設されましたが、以降の車両基地は、新たに開けた西鹿児島駅近くに建設されました。そのため、機関区から西鹿児島に出向いて入換を行っていました。鹿児島にはB20も入換機として在籍していました。このハチロクは、翌年の1972年3月に鹿児島で廃車になりましたが、
以前の記事 でお伝えしたように、動輪の一対が今も吉松駅前に保存されています。

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- 2018/08/06(月) 00:00:00|
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九州夜行列車の要衝の門司構内を水銀灯が照らす
専用機のEF30に守られて「阿蘇」が本州へと渡る

1977年8月 鹿児島本線 門司 (6x7判)
本州と九州を結ぶ在来線長距離列車の往来が盛んだったころ、夕方からの門司には、九州各地から本州に向う夜行列車が集まって来ていた。一世を風靡したブルトレ寝台特急に交じって、安価な自由席座席車もある急行列車も並行して運転されていた。機関車交換が行われる夜の門司の構内を、水銀灯が煌々と照らし、列車の運行を支えていた。ホームは駅弁などを買い求める乗客で賑わっていた。
雨の降り頻る中、熊本から新大阪に向かう204レ急行「阿蘇」が、門司のホームにゆっくりと滑り込んだ。牽引機は交流機のED76から、手際よく塩害対策車のEF30に交換された。ステンレスボディの関門トンネル専用機だ。門司を出発すると、直ぐに本線上に口を開いた関門トンネルに列車は吸い込まれて行く。そして、再び下関で本線用直流機のEF58に交換されて、長い深夜の山陽道の旅路につく。
そもそも、「阿蘇」は東京発が始まりだ。東海道新幹線の開通で、始発駅が名古屋、新大阪と西に移って行った。この写真の時代は、新大阪-熊本間の座席のみの設定になっていた。客車は旧客時代からはグッと快適になり、リクライニングシートの14系が使われていた。しかし、新幹線に押され、長距離夜行列車は先細りの時代を迎えていた。そして、3年後の1980年の10月改正で「阿蘇」は姿を消した。
訂正狂電関人さん のご指摘で、この「阿蘇」の牽引機はEF30ではなく、EF81(300)ということです。EF81(300)は、EF30の増備車として、1973年から1974年に掛けて4両が新製されています。EF30と同様にステンレス車体外板などの塩害対策が施されています。後に、改造車のEF81(400)がEF30の後継に当たっています。記事中のEF30は、EF81(300)と読み替えてください。ただ、やはり当時の主力機EF30の方が、ゴロ的に座りが良いように感じます。誤記、すいませんでした。狂電関人さん、ありがとうございました。
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- 2018/07/26(木) 00:00:00|
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