さて、40歳代ともなると、社会の裏側も知り、勤め人人生にも疲れてきました。絶気とは言いませんが、気持ちの蒸気圧も徐々に落ちてきます。かみさんは園芸志向だし、月並みに退職後は畑と庭でもと考えましたが、マンション暮らしには地べたがありません。小生の経済力では、都市部の一戸建てでは畑はおろか庭も無理。となると、これまた月並みに田舎暮らしということに。そこで、7年掛りで山梨県に広くて安い荒地を見付けだし、新たな拠点作りのため開墾を始めました。この地の開拓史と四季の暮らし振りは別のブログを立ち上げる予定です。
ところが、この場所から小海線の駅には徒歩5分。ジョイント音やホイッスル、おまけにエンジン音まで聞こえてきます。選んだ訳ではなく、たまたまそこに駅がありました。散歩中に駅でキハ110にカメラを向けると、鉄路への郷愁を覚えました。沸々とかつての思いが蘇ってきました。その昔、野菜列車を引くC56を撮り、八ヶ岳登山の往復に何度も乗った小海線がそこにありました。手作りのダイヤグラムを用意するまでに時間は掛りませんでした。こうして、あっという間に鉄画に復活です。縁と言うのは恐ろしいものです。一度復活してしまうと、たまには復活蒸気でもという気になります。
それともう一つ。かみさんが北海道出身でして、年に一度は帰省となります。このところは、道内の空港に順番に降り立ち、鈍行を乗りついで最終地の函館を目指しています。昨年は稚内から旭川、岩見沢、追分、苫小牧、長万部経由で函館に至る縦断コースを辿りました。この車からの部分回帰は、かつての罪滅ぼしでもあり、JR北海道への応援でもあります。現役蒸気時代に幾度となく連絡船で渡道し、その後も通い続ける北海道は小生にとっても大切な故郷です。
ただJR北海道の行く末は心配です。苦言を言い出すと限がありませんが、北海道が持つ素晴らしい資源が生かされていません。まあ、それ以前の問題があるようですが。北の大地の多くの鉄路は、人柱まで立てて開通に至っています。時代の趨勢ですから如何とし難い面もありますが、安易に放棄することは避けたいものです。新幹線しかないJR北海道になってしまえば、もう小生にはJALとANAとAIRDOと函館市電だけあれば十分です。
余談ですが、国鉄の分割民営化の際、泣く泣く北海道の国鉄から内地のJRに移った、職も趣味も鉄と写真という叔父さんがいました。彼のことも何時かご紹介したいです。
ということで、過去画の現役蒸気は全国区ですが、現代版は小海線、北海道、復活蒸気が多くなっています。勤め人から解放されでもしたら、全国区を目指したいものです。一方、現役蒸気はフィルムの状態が悪いものが多く、スキャンと加工には手間と時間を掛けていますが、腕の悪さに加えて画質的にも観賞に堪えないものが多々あります。共通趣味人の思い出や歴史画としてご覧頂ければ幸甚です。
これで自己紹介は一旦終了します。3回の駄文にお付き合い頂けた方がおられましたら、誠にありがとうございます。後々「老年期」も書きたいものです。
次回からは、簡素な写真ブログを心掛けますので、よろしくお願いします。

2012年1月 小海線 小淵沢-甲斐小泉
走れば追い着きそうな速度でC56が喘ぎながら登った、その同じ坂道をキハ110は足早にやって来ます。この辺りは乗馬場が点在する別荘地帯です。夏の賑わいが嘘のような冬の静けさの中、閑散期の減車で単車となった身軽なキハが、軽快なエンジン音を響かせて駆け抜けます。
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- 2014/12/05(金) 17:06:48|
- はじめまして
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蒸気がどんどん少なくなるにつれ、ファンはどんどん増えて行きました。人の多さに全廃を待たずに蒸気からは遠くなりました。しかし、全廃後も被写体を換えて鉄道漂流は続きました。SLファンが去ったローカル線は本来の静けさに戻っていました。今考えると、この時期に大いに頑張っておけば良かったと思います。ほとんど撮り鉄などいないローカル線には、昔の資源が皆残っていました。貨物入替線や人の温もりのある木造駅舎、国鉄色のキハや貨車や客車を引く原色のDDがうようよいたわけですから。哀しいかな、当時は蒸気の喪失感が大きく、撮影意欲はそれほど高くはありませんでした。
大学生時代に車を手に入れてからは鉄道から離れて、風景や山岳、高山植物の撮影がメインになって行きました。いよいよ、勤め人生活を始めると、仕事優先の時期がやってきました。家庭持ちともなれば、気ままな放浪など夢のまた夢です。赤提灯も悪くはありません。鉄放浪の過去がどんどん霞んで行きました。そんな中、国鉄は1984年に貨物のヤード輸送と鉄道小荷物制度を全廃させました。二軸貨車の貨物列車や荷物車は見ることが出来なくなり、駅は無人化、施設は簡略化され、いよいよ鉄道への関心は衰退していきました。そして、1987年に国鉄は分割民営化となりました。車に乗り換えた小生も、結果的に国鉄の消滅に加担したような罪悪感が残りました。
この頃、地方の鉄道旅客輸送も深刻な状況に陥り、ローカル線の廃止が進み、各地でさよなら運転が催されました。特に、かつて巡った北海道の多くの路線は消え去り、北海道の路線図は大きく塗り替えられました。明るい話題は、88年の青函トンネルの開通に合わせて北斗星が登場、翌89年にトワイライトエクスプレス、99年にはカシオペアが加わり、旅を楽しむための列車が現れたことでしょうか。ただ、これも今や新幹線の前に消えようとしています。
一方、時を同じくして、各地に蒸気が復活し始めました。76年大井川鐡道、79年やまぐち号、88年あそBOY・C62ニセコ号、94年真岡鐡道、99年ばんもの等が運転を始めました。しかし、当時は客寄せのイベント列車にはあまり興味が湧かず、旅先で近くを通った際などに、ついでに撮影する程度でした。

1978年1月 谷川岳 一ノ倉沢 衝立岩
厳冬の一ノ倉沢は、限られたエキスパートだけに許される、雪と氷に閉ざされた聖域だ。冬型が緩んだ一時、疑似晴天と呼ばれるつかのまの好天に大岩壁がその姿を現した。
- 2014/12/04(木) 22:20:53|
- はじめまして
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はじめまして。こあらまと申します。初回3回は、自己紹介を書きます。冒頭ですし、ご来訪の方も皆無でしょうから、勝手に鉄道の時代背景付きの簡易自叙伝をそぞろに書いてみます。後々ご自分の人生と重ね合わせ、懐かしまれる方がおられれば幸いです。
小生は東京・練馬生まれで西武線を見て育ちました。小学生の頃に憧れの国鉄を見に、中央線の高架が始まる中野駅近くに自転車で列車を見に行っていたのが事の始まりです。興味は行先の松本や南小谷という地名にもありました。上野駅や東京駅に行くことができるようになると、こればもう小学生には地名の宝庫で、遥か彼方の青森や鹿児島といった行先表示や、足まわりに雪を噛んでやって来る雪国発の列車、車内から漏れてくる異国の空気を感じると、その土地に行ってみたいという強い願望にとらわれました。この時代は、まだ上野には「つばさ」や「いなほ」、「いいで」、新宿には「アルプス」といったキハの特急、急行が残っていました。エンジンを唸らせ非電化区間へ旅立って行くキハに、何とも言えない旅への誘いを感じました。いすみ鉄道の鳥塚さんがよく「DMH17」のことを書かれていますが、小生の脳裏にもこの時にDMH17の音と臭いがしっかり刻まれたような気がします。
小学生も終り頃、同級生3人で八高線に蒸気機関車なるものを見に行こうということになり、のどかな武蔵野のD51貨物とキハ10系にはまってしまいました。それ以来、旅への憧れと蒸気が相乗効果となって、周遊券で全国を放浪することになりました。春夏冬の休みは、アルバイトと撮影旅に費やされました。金などありませんから、何時も腹を減らした無宿者でした。そんな旅をしていると、鉄道関係者やその土地の方々は、見るに見かねて色々と世話を焼いてくれました。本当に有り難かったです。良い時代でした。勝手に師と仰ぐ大木茂さんに「汽罐車」の写真展の際にサインを頂いたのですが、そこには「旅は僕の学校だった。」とあります。全くもって同感です。
その頃、某放送協会に「新日本紀行」というテレビ番組があり、欠かさず見ていました。当時は旅番組などなく、勿論インターネットもない時代、なかなか行けない想像の域であった場所の動画を見ることのできる数少ない情報源でした。富田勲のテーマ曲は今も頭から離れることはありません。

1970年2月 八高線 東飯能
八高線は西武線沿線住民にとって、日帰りに調度良い蒸気路線だった。東飯能は両線の乗換駅だ。そこには、毎週のように、今や還暦が間近になった僕らの少年時代の姿があった。
- 2014/12/03(水) 20:42:12|
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